私の「死にたい」はネガティブな意味じゃなかった

 私は自分が大好きだ。何かを考えるのも大好きだ。だから最近ずっと自分のことを考えていた。すると、自分が発する「死にたい」の意味にたどり着いた。

 私はずっと、「死にたい」はネガティブな意味だと思っていた。そりゃそうだ。Googleで「死にたい」と検索すれば「ヘルプが利用可能」の文字が出てくるし、エヴァでも主人公のシンジ君はとてもつらそうに「死にたい」と言う。

 でも、それらを見て、私はずっと「なんか違うなあ」と思っていた。確かに死にたいんだけど、そういう感じじゃないのだ。別にヘルプ使いたいわけでもつらいわけでもなくて、なんかこう…さ…みたいなことを、ずっと自分に向かって言語化しようとしていた。自分にとっての「死にたい」の本質が理解されなさすぎて、それが一番つらかった。

 おまけに大好きなリアム・ギャラガーは「Gonna Live Forever」と高らかに歌い上げるし、憧れの甲本ヒロトは「生きているのが素晴らしすぎる」と堂々と歌う。

 だから「私も早く生きたいと思わなきゃ!!!」と焦り、次第に「死にたい」という自分の本当の気持ちを無視するようになった。「生きてるのは最高だぜ」みたいな内容の詩を山ほど書いた。

 だけど、こないだ書き物をしているとき、ついに気づいた。

 私はもう生きたから死にたいのだと…!!!

 私は元気に生まれてこられた時点で目標を達成していて、満足していてやりたいことが何もないから、自分のやるべきことはもう済んだから、自分の仕事を終わらせるような自然な感覚で死を望んでいたんだ…と、冷房のないアッツイ部屋で突然知った。誰でも勉強や仕事が終われば、学校を卒業したり、仕事を退職したりするだろう。私にとって「生まれてくる」ということは、その勉強や仕事と同じ類のものだったのだ。でも死ぬのは怖いし痛いのは嫌だし、「生きたい」「人生楽しい!」と思える人に憧れてもいた。

 汗をダラダラ流しながら、私は今までの十八年間の人生を思い返した。幼稚園や小学校で「何をしたいか」「どんな大人になりたいか」を考える時間があったり、学生になって進路を考えなきゃいけなかったりしたときに、「あれ、もう終わったと思ってたけど、これからなのか…」と気づき、そこから「何かやりたいこと見つけなきゃ」「なんとかして何者かにならなきゃ」と考えるようになった気がする。

 だから「色んなことをしたい」「人生がたくさん欲しい」と思い込むようになったけど、実は人生なんて一つもいらないと思っていたのだ。

 その思い込みが肥大化して、「忘れられたくない」「有名になりたい」になっていった。自分の中で「やるべきこと=生まれてくること」はもう済んでいて、他にやりたいことがないから、漠然とした目標しか出てこなかったのだ。

 つまり思い込みを捨てれば、本来の思想である「死にたい」「人生を終わらせたい」になる。まあ要するに、両極端なのかもしれない。

 ネガティブな意味じゃなくても、子供の「死にたい」は親の心を傷つけることも分かっていた。「生まれてきただけじゃダメなんだ」「死にたいと思っちゃダメなんだ」と、自分の心をどんどん否定して、オマケになまじ真面目なもんだから、ないはずの「生まれてきた理由」を必死に探して苦しくなっていたのだ。

 いやービックリした。青天の霹靂とはまさにこのことだ。気づいてよかった。さもなきゃ自分の本当の気持ちに気づかずに、一生苦しい思いをするところだった。

 ネガティブな意味で「死にたい」と言う人たちの気持ちは、私には分からない。でもネガティブじゃない意味で死にたい人たち、周囲の人々にネガティブな意味だと捉えられて苦しんでいる人たちのことは、きっと私のこの文章で救えると思う。いや知らない。責任負いたくないから断言はしないけど…。

 もし私みたいな人がいたら、仲間を見つけられた嬉しさで、もっと心が軽くなるかも。いや、私は特殊な人間じゃないんだと思って、ちょっと心が重くなるかもな。だけど、別にどっちでもいい。

(作成日:2024/9/12)

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