受験生だった私、血が止まらなくなる難病「特発性血小板減少性紫斑病(ITP)」が判明した時の話。骨髄穿刺検査の事
今年も受験シーズンですね。私自身の受験の話を思い出せば、大学受験で東京に行って、到着した夜からインフルエンザ(涙)高熱でへろへろだった・・・とか、いろいろ思い出もありますが・・・
今日は、私の「1つ目の難病」が発病した時の話を書きたいと思います。
あれは高校受験の頃でした・・・
厚労省の指定難病は、現在338疾患あるようですが、私はそのうちの3つが発症しました・・・(涙)です。
1つ目は、
中学3年生(15歳)の時に
ITP(特発性血小板減少性紫斑病)という血が止まらなくなる血液の難病です。
自分の免疫が自分の細胞を攻撃してしまうという「自己免疫疾患」に分類される病気です。
2つ目が、
大学院在学中(25歳)の時に
SLE(全身性エリテマトーデス:膠原病の内の一つ)という、こちらも自己免疫疾患。
3つ目は、
27歳の時に
劇症肝炎です(←マジで死にかけました『救命率2%未満』)
現在は、2つ目の、25歳で発症したSLEとの付き合いが続いています。
難病が判明する時って、患者さんによっては診断がつかなくて何カ所も病院を巡ったとか、何か月、何年もかかってようやく診断がついた、という話もよく聞くし、
また、
歌手の八代亜紀さんの場合、昨年8月に膠原病がわかって、その後4ヵ月ぐらいで亡くなられたという話にも衝撃を受け
人それぞれなんやなぁ・・・、と思い、私の発症時の話も思い出しました。
私の場合は難病3つとも、結構あっさり診断がつきました。
発症時の症状が激しくて、すぐに診断がついたのですが、1つめのITPだけは少し緩やかな発症でした。
「難病」って、どんな感じで判明するの?診断がつくの?
1つ目のITP(特発性血小板減少性紫斑病)の時
中学3年生の夏頃からずーと、微熱が続いてしんどかったんです。
体育でハードルを跳ぶと、ひっかけた足が青あざになっていつまでも治らない。ぶつけた覚えがない所も、あちこち内出血していました・・・
体はなんだかしんどい。
そんな体調でしたが、内出血と疲労感、微熱以外は、あまりこれといった自覚はなく普通に通学していました。
冬休みから熱が高くなってしんどさがひどくなったのですが、風邪だろうと思い、昔から時々風邪の時に通っていた大きな開業医さん(入院病棟あり)を受診しました。
その病院は、初診や、久々の患者さんには
全員、「尿検査」「血液検査」「胸部レントゲン」の3つを必ず行うんです。
問診だけだったら、きっと病気が見つけられなかったんじゃないかなと思います。きっと風邪薬をもらって帰宅していたことでしょう。
私にとって、血液検査があったのが幸いでした。
採血後、長らく待って、ようやく呼ばれ診察室に入ったら
院長が青い顔して、
「これは、大きな病院で診てもらわないといけない」と言われました。
そして、血小板の数値が、4万ほどでした。正常値は15万~35万ぐらいなので、明らかに異常値でした。
血小板は出血を止める作用があるでしょ。
それが激減しているので、打ち身が治らなかったのですよね。
なので、
体調不良で近くの開業医に行ったその日に、
「ただ事ではない・・・」ということが判明しました。
その翌日だったか・・・、
すぐに、ちょっと遠くの大きな総合病院に父に車で連れていってもらい
再度、採血と、耳たぶをカミソリでちょこっと切って、止血時間を計測する検査が行われました。
(その総合病院の)診察室に入ると
医師>「入院して精密検査が必要です。今日は入院の申込みをして下さい。入院は順番待ちなので、早くしないといけない」と。
中3の私は、はじめての大きな病気の恐れを感じて、びびりました。
まだ若かった父も青ざめてひどくうろたえていた顔が思い出されます。
受験生の私、急きょ検査入院に・・・、骨髄穿刺
父は「ここは家から遠いから、一旦考えます。入院が必要なら近隣の病院で相談したい」と、ひとまず、帰宅する判断をしました。
そして、またその足で、最初に病気を見つけてくれた近所の開業医さんへと行き、大きな病院で言われたことをそのまま伝え、ここで入院させてほしいと頼み、すぐに入院になったのです。
私、受験生です。
病気の事も、受験の事も、ハラハラと落ち着きません。
とにかく中学に父と一緒に行き、入院になることを伝え、授業を休ませてもらうことになりました。
はじめての入院。
ドキドキです。
検査入院なんですが、なんせ15歳の乙女なので動揺しますよね。
入院生活にもハラハラしながら、大きな検査が来る日を待っていました。
父と母は、その頃、医師から、血小板が減少する病気をいろいろと聞かされていて、どれもこれも恐ろしい血液疾患ばかりで、両親もビビっていたそうです。
今思えば、あの頃の両親は若くて、そりゃ一人娘が、生死に関わるような大きな病気にかかっているかもしれないと
医師から言われたらどれほど動揺しただろうか、不安な気持ちだったろうか、と、想像できます。
(心配かけてごめんなさい)
入院したばかりの私にはまだ何も詳しい話は聞かされていませんでした。
そして、いよいよ「骨髄穿刺(こつずいせんし)」という未知の大きな検査が始まりました。
ぶっとい針を胸骨に刺して、骨髄を抜きとる検査です。
私>「骨に太い針を刺す・・・?」
そんな恐ろしい検査・・・(>_<)ハァ
私は針が骨に刺されることにビビっているし、母もビビって、表情がこわばっていました。
母は、かわいい娘に大きな針が刺されることだけでなく、その検査後に下されるであろう病名がいろいろ頭を巡っていて、どれほど恐ろしい思いをしていたことか・・・。
そして、検査が始まる前になると母は病室から出されて、私は大勢の医師やナースに囲まれて、
それだけでも緊張するのに
目隠しまでされ・・・
びびる私。
そして、担当医である若い女の先生が
私の体の上に乗って、胸骨にぐりぐりと大きな針を刺しました。
多分、針を何か専用器具を使って刺しているようです。(<目隠しされているので詳しくはわかりません)
(※胸骨は、胸のど真ん中、左右の肋骨をつなぐ位置にある縦長の大きな骨です)
その女の先生は細くて、思いっきり体重をかけて私の胸骨に針を刺すのですが、なかなか骨に入っていきません。
私は怖いし、先生が体重をかけて胸に針を刺すので重苦しいし・・・ううううう
さらに、うまく検査が進まなかったようで、途中でなんだかバタバタガヤガヤ始まったんです。
私は目隠しされてるから、様子がわからないし、部屋を出て行って何か足りないものを取りにいくような足音が聞こえるし、、、
不安( ; ; )
病室から廊下に出されて待っていた母も、ナースや医師が部屋をバタバタと出入りする様子をみて、ハラハラが止まらなくなったそうです。
結局、1回目ではうまく刺さらなかったので、何かの器具を付け替えるかなんかして、2回目で、どうにか骨髄が採取できたようでした。
こっちは、もう冷や汗ものです。
先生も、焦っていたみたい。
後で聞いたら、その若い女の先生は、研修医のころに一度その検査を体験しただけで、初めて実践したらしかったのです。
今思えば、個人病院ですから、そんな珍しい検査めったにしませんよね・・・。
骨髄が採れた後の私は、針が刺さった穴を塞ぐため、砂袋みたいな「おもり」を胸骨に乗せられて圧迫。
血小板が少なくて止血できない状態で大きな針を刺されているので、止血に時間がかかるということで、そのまま2時間ぐらい仰向けで動くなと言われ、私は真面目にびくともせず固まっていました。
緊張と重さでヘトヘトです。
母はまだ廊下で待たされたまま。
病棟の婦長はなんと!
そんな時に、病室で検査前からずっと私の手を握ってくれていたちょっと年配ナースがいたんです。
検査前に自己紹介してくれて、
「私ね、〇〇と言います。〇中の3組の 〇子の母です」と!
偶然にもその人は、病棟婦長さんで(いまでは師長さんと呼びますね)、中学の同級生のお母さんだったんです。
びっくり!
地元の病院なので、そんなこともあっても不思議じゃないですよね。
でも、まぁ驚いたし、
母が廊下に出されている時に、
我が子を見守るような温かなオーラで私を気遣ってくれたその婦長さんの存在はとってもありがたかったです。
そんなこんなで2時間がすぎ無事に止血ができて検査結果が出るまで1週間ぐらいだったと思うのですが、結構な長い期間待たされることになりました。
結果待ちの間は、
どんな病名がつくのだろうか、
私はどれぐらい生きられるんだろうか・・・と、
不安で落ち着かない毎日でした。
それで、結局、検査結果をみて、
担当の先生が、色々な病気の可能性を消去法で消していき
「膠原病」または「特発性血小板減少性紫斑病(ITP)」の可能性が高い。とのことでした。
ここからは、大学病院の専門医に診てもらってくださいとのことで、
春休みを待ち、大学病院へ。そして確定診断
大学病院へと「紹介状」が書かれて
春休みを待って大学病院の免疫内科を受診することになりました。
その大学病院の免疫内科の医師は、とても詳しく問診をしてくれて15歳の私は感動しました。
「こんなに丁寧に話を聞いてくれる先生がいるなんて!!!」と。
その後、この先生の診断では、免疫内科が診る「膠原病」というよりは、血液内科に診てもらった方がよいということになり、血液内科へとまわされました。
そして、血液内科で再度詳しい検査が行われて、ITPと正式に診断されたのです。
書き出すと、診断がつくまでそこそこ長い道のりでしたね・・・
【異変が判明してから、確定診断が下されるまでの道のりの まとめ】
1.近所の開業医で、「ただ事ではなさそうだ」とわかる
2.大きな総合病院へ行く「すぐに入院をすすめられる」
3.(1)の開業医へ戻り、検査入院
4.検査結果を持って、大学病院の免疫内科へ紹介される
5.大学病院免疫内科の判断で、血液内科へと変更
6.血液内科で再検査して、確定診断
この騒動の間に、高校受験を終えていて、希望する高校に合格していたのですが、受験前に、「生死に関わるかもしれない大きな病気になっているのかも」と、大きな不安を抱えてしまったので、
受験についてガクンと意欲が落ちました。
頭の中は「私はいつまで生きられるのか」という事でほとんど埋め尽くされて、
入院が多くなったら、高校もまともに行けないかもしれない、
大学進学時の受験戦争なんてする体力はないだろう、
成人式を迎えることができるのだろうか・・・と、
先が暗くなっていたので、
高校生活への期待や、将来への希望は、消え去ってしまい
高校も無理せず入れそうなところで、短大がついている女子校だけ受験することにしました。
記憶が定かじゃなくなってますが、検査入院している間に出願したり、入試も退院後すぐか、病院から行ったか・・・ぐらいだったような。
入試よりも、病気の事で頭の中がいっぱいになっていました。
大きな病気をすると、
人生の選択肢はガラっと変わったり、
狭まったりするように
私は感じています。
ITPの診断は、こんな感じでした。
最初の血液検査が決め手だったと思います。
あの最初の血液検査をしてなかったら、しばらく、病気がわからないまま過ごしていたことだと思います。
原因がわからないままでいるのは、ツライですから見つけてもらえてよかったと思います。
先ほど書いた骨髄穿刺の検査ですが、実は、大学病院に行ってからも
もう一度せねばならなかったんです(涙)
この血液内科の先生は
「え!?入院して検査したの?」と驚き、
「ここでは外来でできますよ。病棟のベッドを一つ用意してもらうから、検査と休憩合わせて3時間ぐらいあったらできるからね!」
と、にっこり。
こちらは、びっくり。
あんなに大変な検査だったのに、
外来でできるなんて・・・。
(なんで、この前は、入院せんとあかんかってんやろぅ・・・?)
同じ検査をするにしても病院で違いがあるんですよね。
長くなってきたので、
大学病院での骨髄穿刺については、次回に書きますね。
な、な、なんと胸骨からではなかったんですー!
ではまた次回書きます!
・・・・・
そして、この血液内科の医師は、こののち10年来の私の主治医になります。
↓以下の↓ 私の劇症肝炎時の闘病が元になった小説『救命率2%未満』にもこの医師が登場します!第2巻で登場! よかったらこちらも読んでネ!
note管理人の人生最大最悪最強の命がけの闘病についてAmazonKindle本になりました。
めっちゃリアル。ハラハラどきどき。ほんまにこんな事があるの?!
ぜひ読んで欲しいです!Amazonベストセラー獲得!
山中まる著『救命率2%未満』>https://amzn.to/3QHjrib
そしてnote管理人は、WEBショップもやってます!
アスモスマイル>https://asumosmile.ocnk.net/
災害や通院、アレルギーに役立つアイテムを企画製作しています。
ご来店お待ちしています♪