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1/4 SDGsは終わってしまったのか?一人ひとりの学びと対話で切り開く持続可能な九州|澤 克彦(九州環境地域づくり)
はじめまして、澤と申します。日頃は、サスティナビリティに関する情報発信や協働コーディネートに携わっています。このコラムでは私自身の根っこにある考え方などについて、つらつらとご紹介しながら、みなさんの当たり前の暮らしが大切だということをお伝えしたいと思います。
おしごと EPO九州 コーディネーター https://epo-kyushu.jp/
※【AI要約】は生成AIによる簡易要約をもとに、一部修正して掲載しています。また、イメージ画像は要約をベースにしたプロンプトによるAI生成画像です。
vol.1 すべては水俣から学んだ
【AI要約】
SDGsのルーツの一つとして、水俣病の歴史があります。1972年、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんがストックホルムで訴えたことが環境問題への関心を高めました。現在、水俣は地域再生のモデルとされますが、水俣病問題は未解決のまま。
わたしは90年代に地域づくりの現場に居合わせ、住民主体のまちづくりや環境保全活動を体験したことで水俣のもやい直しの実践を通じ、持続可能な地域づくりの本質を学びました。
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【本文】
最近はだいぶ落ち着いたSDGs(sustainable development goals)界隈ですが、東京オリンピック前後のSDGsフィーバーは、コロナ禍真っ只中だったこともあり、今思うとちょっと異様だったのかもしれません。右も左も、持続可能で未来で若者で、という空気が充満していました。
SDGsがスタートした2015年から数えると、すでに2030年のほうが近くなっています。しかしながら、目標とされた様々な課題解決は道半ばといえます。
あくまでゴールなので、より高く・遠いことが全体の底上げにつながるので、ことさら目くじらをたてることもないのですが。
さて、ではそもそものSDGs的なものの始まりはどこにあるのでしょう。
タイトルのとおりですが、大きなきっかけの1つは胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(当時15歳)が、1972年(昭和47年)にストックホルムでその惨状を世界に訴えたことがあります(その後に続く、セヴァン・スズキさん、グレタ・ドゥーンベリさんがこの系譜にあるかどうかは議論のあるところですが)。
近年の水俣は、SDGs未来都市として、少し遡るともやい直しによる地域再生のフロンティアとして地域ぐるみの取組が注目されていますが、そこには今なお係争の続く「水俣病事件」があります。
(2024年5月には、環境大臣と患者団体の懇談の場で、マイク音声が切られる事態が生じました。これは、水俣病の歴史に刻まれてしまう残念な事件となりました。)
偉そうに書いてしまう一方で、よそ者の私たちにできることはごく限られています。知れば知るほどにもどかしい思いを抱いてしまいます。
私がまだ中高生から大学生のころ、1990年代前半に父の仕事に関連して水俣でのイベントに参加したり、寄り合いに混ぜてもらう機会が多々ありました。
地域づくりの業界では「地元学」と呼ばれる取り組みが徐々にその姿をあらわしだした時期と重なります。
ある時、とある水俣の地区集会所に行くと地域のみなさんがぞろぞろと集まり、模造紙(熊本弁では広用紙)を広げ、付箋にマジックが配られ、わらわらといろいろな意見が書き出され、いわゆるKJ法的な進行でワークショップが展開されました。
今でこそ住民参加型ワークショップなどと呼ばれる光景ですが、90年代の中山間地集落で、それが当たり前のように展開されている様をふりかえると、いかに水俣の方々が自分たちの地域のくらしを自らの手で取り戻そうとしているのかがわかります(その場にいた当時の私にはその重さすらわからずに議論に加わっていました)。
また別のタイミングで、水俣湾を埋め立てた広域公園の一角に人々が集まり、どんぐりを実生で植える企画がありました。大学生だった私はただただ面白がって植えたり、ばらまいたりと地元のみなさんに混ざって活動しました(父が、この企画のアドバイザーでした)。
この活動が現在の実生の森として、30年生の照葉樹の森を作っています。断片的な記憶ですが、植えたドングリは水俣地域の山々から拾い集め、一部は苗木にして準備するなど、今で言う生物多様性の種・遺伝子の撹乱にも配慮した準備が施されていました。
私は、過去の歴史を深くは知らないままに、当時の吉井市長による水俣のもやい直しの大きなうねりのはじっこで、一人の参加者・傍観者として関わりながら、持続的な地域づくりの萌芽の最中で、知らず知らずのうちにその本質と哲学を学んだのかもしれません。
参考リンク)
ストックホルム会議 人間環境宣言
https://www.env.go.jp/council/21kankyo-k/y210-02/ref_03.pdf
【次回】vol2:趣味とオタクから、おトクでクールなサステナビリティへ