祖父の言葉「まんま五分目にしとぐんだ」
なんでも簡単に手に入る時代になったが、お腹を満たすため、栄養のため、身体のため、見た目、義務。いろいろいろいろ考えて食事を作って来た。
だけど歳とともに嗜好は変わり、脂っこいのも量も食べられなくなった。
揚げ物・丼好きの主人もそうである。
無敵だった胃袋がだんだん食細り始めた。
「食べることは生きること。」
と有名な女性料理人がおっしゃった。
「ごはんは美味しくなくていいんです。」
と有名な男性料理人がおっしゃった。
どちらも本当だと思う。
前者の言の由来は、身体に良い食材を選び、できる限り労を惜しまずそれらの素材を育て、摘みとり、調理し、食す。つまりは生きた食材をいただく。それが食べることは生きること、だと私は解釈している。
後者の言の言わんとするところは、一杯の汁と飯。今家にあるもの、素材で味噌汁を作り、ご飯といただく。妻だって家事や育児で疲れている。夕飯は30分以内に作れる簡単なものでいい。
お味噌汁にはその日冷蔵庫にある野菜、卵、または買ってきた肉であったり。
ごはんは美味しくなくても構わない、というのは、疲れている人が作ってくれるのだから、作ってくださることに文句言わず食べろ、という意だろう
そして、
「何処でなにごっつぉになっかしんねがら、
まんま五分目にしとぐんだ」
これはぼそり、と言ったうちの祖父の言だ。
どこで何をご馳走になるかしれないから、家で食べる食事は腹5分目くらいにしておくのがいい、という意味である。
前者二人の言と比べ、なんて贅沢な論だろう。
そして地方の人付き合いにおける暗黙の鉄則なのかもしれない。
田舎のひとは、もてなし好きである。
近所の人付き合いも密だし、知人が訪ねてくれば菓子や漬物、また食事めいたものを出すのも珍しくない。
祖父は昔、町内会長をしていたし、顔がひろかった。何処かに訪ねれば、必ず何か(食物が)出てくる。
礼儀上、まったく箸をつけないわけにもゆかないし、残すのは申し訳ない。
だから、家で食べる食事を少なくしておいて、どこで何をご馳走になっても食べられる胃袋の余裕を持て、ということなのだ。
付き合いのための下準備、とも言える。また、何度か訪ねたことのある宅なら、折々のタイミングで何が出てくるかなんとなくわかっていたのだろう。
祖父は食がほそかった。酒飲みのせいもあるが、前述からしてコントロールしていたのかもしれない。
今私は夫と自分の二人暮らし。
冒頭に書いたが食が細ってきた我々、
食べるものを食べる分だけ、買って調理するシンプルな食生活を送っている。
食事に関する三つの言を挙げたが、ひとを取り巻く環境は様々だし、時代も違う。
富裕なひと、お金に余裕のないひと、時間のないひと。
皆、それぞれに合った己の家の鉄則を持っているに違いない。
言葉にしなくても。
それは大事なものなんだ。
生活しながら、ふと思い出す。あの時の料理家の、シンプルで直球な言葉。
呑兵衛で威張っていた祖父が、人知れず他人に気をつかっていたこと。
食事はいろんな意味を持つのよね。
なんら煩わしいことのない自分は幸せである。
今日も感謝して食事をいただこう。
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