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私、ブスじゃなかった

「女の嫉妬は怖い」というと主語が大きいですよね、失礼しました。

以前付き合っていた人の女友達に、私とは正反対な、Cちゃんという子がいました。私と同い年の子で、世界的に有名なコンサル企業で働いています。実家も裕福で、いいところのお嬢さん。私はその子に嫉妬していたことがあります。

華奢で目も大きく可愛らしいCちゃんとは、いつか仲良くなれたらいいなと思ってはいました。ですが、自分の中にどうしても引っかかる点がひとつありました。それは彼女が「永遠に自分の話しばかりする」タイプの女の子であること。彼女の話しはお世辞にも面白いとは言えないのですが、それでも男友達は絶えません。

そんな「女の子として可愛い自分」を受容してきたCちゃんとは対照的に、私は自分のことをずっとブスだと思って生きていました。小学生の頃に同学年の男の子たちから体が大きいことを揶揄われていたせいでしょうか。

過去を拗らせたまま大人になった私が長らく指針としていたのは、お笑いコンビ「相席スタート」の山﨑ケイさん。(詳しくは『山﨑ケイ 仮定ブス幸福論』で検索してみてください。)「ブスならせめて暗いよりは、明るい方がいいし、どうせなら気遣いができる方がいい。」ブスならせめて、自分語りや愚痴は慎み、相手の話を聞き出す質問をしたりして、相手が気持ちよく会話ができるようなコミュニケーションを取る方がいい。それが当然の嗜みだと思っていました。



ある時Cちゃんは、自身の誕生日パーティーを、なぜか私と当時付き合っていた彼が同棲していた小さなアパートの一室で開催したいと言い出しました。費用はCちゃん以外の参加者全員で割り勘にしましたが、予約していたケーキの受け取りも料理も、結局私がやることになりました。「彼の旧友なのだから、丁重にもてなそう、楽しんでもらえたらいいな」と張り切った私は馬鹿でした。

当日、金曜日の夕方6時半に到着したCちゃんは、パーティーが終わるまで私にはたったの一言も声をかけず、持参したワインを手に、友達たちと喋り倒し、片付けも一切手伝わず、大変楽しい時間を過ごしたようでした。
あんまり頭にきた私は、何度か彼女に嫌味を言おうとしましたが、その様子を察した元彼にやんわりと止められました。「せっかくの誕生日なんだからいい思いをして帰ってもらおうよ」と。もちろん納得できなかったけれど、まああと数時間でこの苦行も終わるだろう、そう自分に言い聞かせました。誰も私に話を振らないので、食卓では無言で自分以外の人たちのマシンガントーク話を聞き、主に配膳や片付けをして時間が過ぎるのを待ちました。

夜11時、そろそろいい加減にお開きにしてくれないかと痺れを切らして頼んだところ、Cちゃんはタクシーを呼んで、2分後には夜の輝かしい街に消えていきました。結局私に一言も声をかけることも、目を合わせることすらなく。

私はあの夜どうしても、Cちゃんに一言嫌味を言いたかった。それだけで少しは自分の気が晴れたはずです。食費は全てこちら持ちなのはもちろん、部屋を掃除したり、食材の買い出しをしたり、料理を作ったり、電車が事故で止まっている中で2時間もかけてケーキを受け取りに行ったりという、たくさんの見えない「無償労働」があったこと、彼女はそれらに全く想像が及ばない。(当時の彼は、私がパーティーの準備で大変な思いをしたことを私がいない場でCちゃんに伝えたそうですが、彼女は「Oh no!」と一言言っただけだったそうです。私個人への挨拶は結局一切ありませんでした。)裕福に育ったとはいえ、ここまで子供っぽくて周りの見えない同世代の女の子は、私の友人にはいません。最初から仲良くなれる運命ではなかったということでしょう。あの日以来、彼女とは一度も会っていません。


彼氏と別れて一人暮らしを始めてから、なぜかちょっとずつモテ始めました。同年代の男性からではなく、男女関わらず、世代もさまざまな、色んな人たちから不思議と声をかけられることが増えたのです。知り合いや友達が増えました。

毎日ご飯の世話を焼く相手も、トイレに入るタイミングを気遣う相手もいません。好きな時間に起きて、好きなものを食べて、映画を観て泣いたり、カフェでじっくり本を読んだり。家事も最低限でいいので、化粧やヨガに好きなだけ時間を使える。仕事や趣味に没頭した日の夜はよく眠れるからか、心身の調子はすごぶる良い。

結局、自分が今の自分の状態を好きであれば、機嫌良く、自分の選択に納得して日々を過ごせる。そんなシンプルなことだったのです。



恨むべきはCちゃんではなく「彼氏に嫌われたくない」という思いを優先したがために「自分の尊厳を守りたい」という内なる声を行動に移せなかった、自信のない自分自身。自分を大事にしないくせに、言うことを聞いていさえすれば元彼に守ってもらえると過信していた。

自分の容姿はどうであれ、自分の幸せを他人に任せてはいけないかったのです。



不必要なほどに自分を卑下することで、自分自身をブスに陥れていたのかもしれない。謹んで謹んで、ただでさえ小さな体を、余計に小さくして人ごみの中を歩いてきた。けれどその選択は、私を不幸からは守ってくれない。

すれ違うそれぞれの女性に異なる魅力があるのと同じように、道ゆく人が振り返るような容姿ではなくとも、私は魅力のある女性だ。決してブスじゃない。山﨑ケイさんの言う、当たり前のことが当たり前にできる素敵な女性、それは自分が心地よい自分でいるためにやるだけであって「こんなブスな自分が生きててごめんなさい」と、周りの目を気にして贖罪のつもりでやるようなことではなかったのだ。本当は私だって、肩で風を切って、胸を張って、楽しく軽快なステップで毎日を歩いていきたい。そうでないと勿体無い気がするから。

自分が心地よい自分自身でいられたら、もうそれだけで充分、幸せに生きていけるはず。

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