見出し画像

「きらい」について思うこと

『はせがわくんきらいや』という絵本を読んで、自分が学生の頃「学校しんどい」と感じた理由が見えた気がしました。

この絵本は1976年、絵本作家である長谷川集平さんのデビュー作として出版されています。絵本の主人公である「ぼく」と同級生の「はせがわくん」の交流が描かれているのですが、「はせがわくんきらいや」と言う少年の正直で素朴な感情がひしひしと伝わってきます。その状況ならそう言いたくもなるよね、と滑稽にさえ思えるような、等身大で一生懸命な少年たちの日常が描かれています。「はせがわくん」は1955年に起こった森永ヒ素ミルク事件の被害者として描かれているので、社会問題という観点からも考えさせられる絵本だと思います。

私はこの絵本を読んで、学校へ行くと「きらわれたら終わり」という絶望感を感じるからしんどかったのだ、ということに気がつきました。

「きらい」という感情は、良いでも悪いでもなく、自然と現れるものであり、あって当然のものだと思います。多様な人達が共に生きる場、たとえば地域のような場では、好きできらいでも、とにかく共に何か成さなければ立ち行かない空気感、誰も彼をも共同体の一部として、生きるための営みに巻き込んでいく素朴な空気感があります。

『はせがわくんきらいや』に描かれている情景からは、そんな素朴さを感じました。感情がただ沸き起こる様子、翻弄される人たち、それでも生きていくためにただ共に過ごしてゆく時間が描かれていて、リアルだと感じました。そこにある「きらい」という感情は、絶望感を生み出してはいません。

誰かの存在を大切に思える感情は、共に過ごした時間が生み出す愛着のようなものであって、好きとかきらいとはまた別の次元で、共にあり得る感情なのだと感じました。

学校で感じたしんどさとは、「きらい」という感情を悪として切り捨てていく空気感、好きなもの、良いものだけを突き詰めてゆく洗練された空気感に対して抱いていた感情だったように思います。

良いものだけを良しとする場では、誰かに「きらい」と言われることがまるで「不要」のレッテルを貼られたかのような絶望感を生み出します。「きらい」を「好き」に変えるための努力とは結局のところ、ダメな自分の排除であって、ありのままの自分を自分で否定する行為でもあります。

自分で自分を否定しなければならない状況で、生きることに一生懸命になどなれません。不要な自分など生まれてこなければよかった、そんな絶望感しか抱けません。

教室では規律を乱す行為を皆で注意し合って矯正していきますが、どんなに言っても集団に足並みをそろえられない人は必ず存在します。集団と個人の相性の悪い部分を「障害」として、個人が何とか集団に合わせられるよう「支援」を施しながら、集団の規律を守っていく姿勢。私はそんな集団が、こわいです。

学校でちゃんとしてるみんなが、こわかったのです。そんなみんなの足を引っ張り「きらい」と言われるくらいなら、そこに存在したくない。自分を変えることは苦しいし、自分が不要とされるのなら別に生きていたいとは思わない。それが学校のしんどさだったと思います。

私はもっと、素朴な世界で生きていたい。
生まれてきたから生きている。
誰も彼も、みんな、一生懸命生きている。
好きもきらいも、あっていい。
それぞれの場所で、できる範囲で、やれることをやりながら、一生懸命生きたらいい。

出会う誰かに対して興味も関心もなく、無機質に「きらい=悪」として容赦なく切り捨てようとする世界観もあるという現実が、私にとってはどうしようもなくこわいです。

生きることに一生懸命になれることは、幸せなことだと思います。
「きらい」という感情を、良し悪しや善悪ではなく「より自分が心地よく生きていくためのセンサー」と捉えてみたらどうでしょうか。なぜきらいなのかを考えてみる。なぜその人はそんななのかを考えてみる。

相手を知ろうとすること、その背景に思いをはせる事、興味関心を持って話を聞くこと。「きらい」はきらいのままでいい、ただ誰かと共に生きる上で、お互いを理解し合う事さえできれば、共に生きることは苦しい事ではないと思います。

『はせがわくんきらいや』を読んでの感想を、書いてみました。
作者さんの公式ではありませんが、読み聞かせの動画もありましたので、興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?