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全摘出正解 術後病理検査の結果が出る「魔女になる日 さよならおっぱい」28 

11月11日(月)退院後初めての術後診療

乳がんによる右乳房全摘手術のため、10月27日(日)から、11月2日(土)にKM中央病院に入院したことは、これまでの連載で書いた。
私は術後9日目の11月6日(水)に仕事復帰し、10日後の8日(金)は1限から5限まで大学の授業を担当していた。改めて暴挙ぶりに驚くが、さすがに8日は、共同担当授業の5限の途中で退出させていただいた。

そのようなわけで、退院の週は術後診療にはうかがえず、翌週の11月11日月曜日、退院後初めての術後診療に訪れた。
私は京都の東の端に暮らしているが、KM中央病院は京都の西の端にある。
普段の生活圏からは離れた地域だ。
月曜は、担当執刀医のN先生の診療は午後5時からの夜診療である。
幸いなことに月曜は大学は授業がなく、学科会議や授業準備にあてることができる。
私は、術後診療で月曜にKM中央病院を訪れるときは、早めに出かけて洛西を観光、散歩することにした。

太秦広隆寺を訪れる

太秦広隆寺


その日は、太秦広隆寺に立ち寄った。中学の歴史の教科書で太秦広隆寺の〈弥勒菩薩半跏思惟像〉を見てから、一度お会いしたいと思っていたのだ。
仏像様たちは撮影禁止。広隆寺の本堂と庭の蓮池に降り注ぐ光を撮影した。

暗がりの中で弥勒菩薩の静かなお顔と向き合いながら、この3か月の精神を鎮めようとした。
術後2週間も経過していないため、右胸の切除痕、センチネルリンパ節生検をした右脇下、右腕の外側の神経は、まだ痛んでいる。
神経を集中すると、じんじんとした痛みが迫ってくる。
蓮池に注ぐ光と水の音、半跏思惟像の表情が、私の深部にある荒れた海を鎮めていく。

乳がんの疑いを得た7月末、乳がんが確定した8月末、入院手術をした10月末から11月初め。乳がん患者の自覚があったのは3か月にも満たない。
この間に、どれだけの情報を調べ、検査をし、医師の説明を受け、決定をしなければならなかったか。

不安や悲しみといった感情を、私は今回も自分のなかの深い海に押し込めてしまっていた。
それが感じられ、外に出すことができたら、胸につかえているものが楽になるのだろうか。私が求めていたのは、落ち着いた心だった。

術後診療を受ける

17時前に病院に到着したころには、日が落ちて寒くなり始めていた。
乳腺外科の診療室に呼ばれて入り、N先生と看護師さんに挨拶をした。
診療室に、懐かしいような親しみを感じた。
退院して帰還した娑婆は、役割や責任、生活に心がささくれるのだ。
病院にいる緊張感がないのは、N先生や医療スタッフのお人柄や、この病院のカルチャーなのであろう。

患者と医師が、互いの顔を記憶することすらない病院もある。
人間として向き合っているのではなく、患部、臓器を見ているからだ。

「お胸、見せていただいていいいですか」
挨拶が終わって診療室の椅子に座った私に、N先生が話しかけた。

術後に購入した前あきのシャツの胸を開ける。
幾重にも重なった皮を一枚ずつ脱いでいくように、シャツ、ブレストバンド、肌襦袢、和装ブラ、脱脂綿パッドを外していく様子を先生は見ている。
術後、私がどのように患部を管理しているのか、観察している。

「パッド、洗濯できるタオルなど、脇の下まで覆うものがいいですよ。みなさん、自分にあったものを選んでいるようです」
先生はそう言って、不織布で覆った脱脂綿パッドを新しいものに替えてくれた。男性にケアされるというのは、私の人生では初めてのことだったかもしれない。そのことに、不思議な感覚を覚えた。
私の父は、私をケアしてくれたことはあったのだろうか。

そういえば、母校の中高一貫校の教員をしていたとき、在校中私の担任をしてくださった男性のA先生が同僚だった。A先生は、学年主任として厳しい生徒と保護者の案件で私の背中をしっかり支えてくださった。

ドレーンのない私の右胸には血液とリンパ液が溜まり、ふくらんでいた。
「水、抜きましょう」
先生がそう言うと、看護師さんが大きな注射針を持ってくる。
「ここ、感覚ないでしょう」
右胸の上部を先生が触れようとする仕草に、私は反射的に後ろに引いた。

「あ、ごめんなさい。急には触らないよ」
異性の先生は、こういうときに申し訳ないほど恐縮される。

「触ります」
そう言って、先生がそっと触れた。
乳房を全切除した右胸は、皮が分厚く感じられ、じんじんと響いている。
「ここに針刺しますね」
思いのほか、太い注射針が刺されるが、確かに感覚がない。
注射針で吸い出された胸の血液が、注射内にたまっていく。
先生はそれを脱脂綿の上に捨て、続けて注射針で血液を吸い出した。
血液の溜まりを抜き取られた私の右胸は、平らかに静かになっていった。

病理検査の結果

手術後、さめやらない麻酔の意識のなか、N先生に全摘出された右乳房を見せてもらった。
私についていた乳房という臓器は、悪性新生物に浸食され切除され、脂肪の塊の上に乳頭の載った不思議な物体となり、タッパーに収められていた。

全摘出された組織は、KM中央病院の病理診断科に組織診断を依頼され、今日、その結果を見せていただいたのである。

切り刻まれ、詳細に病理検査された臓器としての乳房。カラーは生々しいため、モノクロで。

この写真のほかにも、乳房の形の原型をとどめたまま、横から断面を検査するために切り刻まれた写真がある。上記の写真は、それを切り離したものだ。

「鮒ずしみたいでしょ」
N先生は、また少し笑ってしまうような比喩を使う。
東京から京都に転居し、滋賀県の長浜のお寺で講演を依頼されたことがある。講演のあと、お坊さんたちが案内してくださったお店で、一度だけ鮒ずしをいただいた。確かに、切り刻まれた乳房には、黴のようにがん細胞が内包されていて、それは鮒ずしのようだった。

「結構、広がっていましたね。乳頭の裏までがんは広がっていたので、乳頭をとってしまってよかった。全摘は正解です。
がんは、6センチメートル×4.5センチメートルまで広がっていました。
しかし、どれだけ大きくても非浸潤がんで、乳管内にとどまっている。転移も浸潤もないです。だから、治療はとっただけで終了。ドラマは起きないよ。おめでとう」
先生はそうおっしゃって笑った。

「え、治療終了ですか。なんだかすっきりしました。ありがとうございます。もう、タモキシフェンなどホルモン剤も飲まなくていいんですか」
私が訊ねると、
「要らないですね。術前に非浸潤がんだと診断しても、術後の病理検査をすると2割くらいは浸潤している可能性がある。今回、浸潤もないということがわかりましたので。あとは、がんができやすい体質かもしれないから、今後反対側も気をつけてみていきましょう」
先生は、そのようなことを返答した。

「当初、転院前のP病院の術前のMRIの画像診断では、2センチだけだから部分切除でくりぬくだけでもよいと言われていました。非浸潤がんだから、腋下の転移を調べるセンチネルリンパ節生検も実施しない予定でした」
私は、これまでのことを振り返るようにN先生にお話した。
私は、P病院でそう言われても、直観で7割方全摘出だと思い、セカンドオピニオンを求めてKM病院のN先生のところを訪れたのだ。

「私は、がん患者卒業ということでいいんですか?」
念のため、私は訊ねた。
「ま、そういうことになりますね。でも、外科手術のあとだからまだ怪我人です」
先生は楽しそうなお顔をしている。

「なんだか、縁と運というか、P病院の手術を直前でキャンセルして、こちらの病院に転院してN先生のところにうかがってよかったです。助けてくださってありがとうございます」
私がそういうと、
「神様があなたを助けたんでしょ。自分についているものなんだから、自分の感覚が正しいんです」
N先生は、自分が助けたとはおっしゃらない。

プリントアウトされた病理診断の資料をいただいて、説明は続いた。
私は、黒い点々となったがん細胞を眺めていた。
「ここなんて、ドリアンのようでしょ」
先生、また食べ物の比喩。
私はおかしくて笑った。

傷痕はまだ痛んだが、私は片乳のこの体で生きていく。

先生には、私の書いたnote連載に、医療的なこと、内容的なことで問題があれば、ご指摘くださいというお願いをしていた。
先生は、本当に読んでくださっていた。

「傷痕に水がたまっていたら処置するので、また、来週いらしてください」
N先生に言われ、私は本格的に娑婆に帰還した。魔女の離陸だ。

全切除後、私の意識の深部の海で起きること。
そのことを読みたいとおっしゃってくれた編集者の方がいらした。
この連載はこれからである。
私はこうして片乳の魔女になって、私自身に起きたことを、次の人たちのために、思考していく。












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