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娑婆に帰還した魔女「魔女になる日 さよならおっぱい」27
11月1日土曜日 退院
乳がん切除のために、1週間お世話になった病棟と、KM中央病院の医師、看護師の皆さんとのお別れのときが来た。
担当医のN先生が大阪に寄ってから午後に病院に来られるというので、挨拶をしてから退院をすることにした。
フィールドワークの小旅行と同様、本、パソコン、わずかなスキンケア用品、下着を携えただけの私は、患者から卒業し、再び様々な役割を担う娑婆に戻っていく。
入院時と変わったことは、私の右乳房が切除されたということ、そのことで乳がんの増殖が止められたということ。
右胸、脇、腕にまだ痛みは残っていたが、意識の底にあった不安が払しょくされ、心理的には随分とすっきりとしていた。
叔母が乳がんで亡くなった20年前なら、早期に発見されなかった乳がん。
20年後の私は早期発見と手術をしていただき、命を救われたのだ。
病棟の皆さんと先生に、京都の銘菓「阿闍梨餅」を満月の本店で買ってきてほしいと、連れ合いに伝えた。
私たちは、まだ温かい「阿闍梨餅」を準備して病室で待機した。
片乳の魔女、娑婆に帰還する
お昼前に、N先生が病室にいらした。
手術前日の日曜に病室にいらしてから、先生は7連勤である。
先生は、入院中最後の術後診療をした。
私は、いつものように胸を開く。
それはもう、女性の乳房ではない、平らかな傷痕だった。
テープの下に息をひそめている右胸の傷痕に、連れ合いの視線を感じた。
私は、ふたりの男性に切除された右胸の真一文字の傷痕を見守られている。
もし、ここに医療従事者でない、女性の友人がいてくれたら、私は泣くことだってできたかもしれなかった。
いや、いつものように、泣くのは私ではなく、相手だ。
私は先に泣かれてとまどい、毅然とし、やっぱり泣かないのだろう。
「びっくりした?」
私は、連れ合いに話しかけた。
N先生が左横でかすかに反応するのがわかった。
「ううん」
連れ合いはさりげなく否定した。
喪った右乳房についてどのように受け止めたらよいのか、私がまだわからないのだから、彼にわかるはずがなかった。
「(傷痕を)自分でどう思うかの次は、他者の目をどう感じるかだから」
N先生は、そのようなことをおっしゃった。
「他者の目?」
と、私が聞き返すと、
「温泉とか」
と、おっしゃる。
他者に自分の裸を見られるのは、確かに温泉くらいのものだ。
乳がん術後の入浴衣というものがある。それを身につければ、他者を驚かせてしまうことを避けることはできるだろう。
私は、あたたかな阿闍梨餅で、KM中央病院の皆さんにお礼の気持ちを伝えた。
手術中に私のいのちが消えないように管理してくださった麻酔科医師の先生宛に、ニキ・ド・サンファルの絵葉書にお礼のメッセージを遺した。
退院したら、ブレストバンドで平らに抑えた胸に男もののシャツを着て、Gパンを履き、ショートカットにする。
そう決めて、私はKM中央病院を退院した。
セルフ・スティグマ(自身への負の烙印)から自由になること
私は、10代のときから「他者と自分は違う」という内心の疎外感と孤独に向き合ってきた。
そのことは、私を早熟に自立させ、セルフ・スティグマから自由にさせた。
私が過ごした中学高校大学は、私の血縁者とは文化、階層、言語の異なる環境だった。
社会に出てから、祖父が在日コリアンであるというルーツで被った差別の眼差し。
「他者の目」は、その人自身の人間としての力量、人権意識、知識、知性を反映する。
本人の無自覚に、眼差しはその人の人間性を残酷に晒してしまう。
私自身に内在するマイノリティー性は、むしろ、付き合うべき人間を判断するリトマス試験紙である。
朝鮮半島ルーツを明らかにするによって、むしろ大切な方たちに出会えた。
「アジアの別の立場を体内にもつ幸せな人」
詩人の故・森崎和江さんは、私にそう呼び掛けてくださった。心身の等級づけを拒むことを教えてくださったのも森崎さんだった。
人生の時間には限りがある。
付き合いたい人、距離をとるべき人を判断し、すべき仕事を絞っていく時期だろう。
不必要に他者にショックを与える必要はない。
問題は、自分自身が自分のボディイメージをどう思うかだ。
他者のルッキズムは私の人生には関係がない。
右胸を喪ってがんサバイバーとなった私は、さらにタフな魔女となった。
若い女の体のときのように、欲望の対象となり、危険に見舞われる機会も減るだろう。
魔女は、セルフ・スティグマからも自由だ。
学生たちと、ハンセン病文学について学び、国立ハンセン病療養所・資料館を訪れたことがある。
身体の欠損、差別を伴った他者の眼差しを押し返すように、深い精神性のある尊厳が強靭で美しい人間の詩としてたちあらわれていた。
片乳の魔女になった私には、さらに深く、人間とものごとの本質が見えるようになるだろう。
キャンサー・ギフトを受け取って、私は魔女になる。
助けられていたのは、誰か
これを書いている12月15日、これまでに私の胸の傷痕を目撃したのは、医師と看護師と連れ合いだけだ。
2月の終わりに、私は研究活動で鹿児島にある精神障がい者の就労継続支援A型事業の出版社を見学に行く。
女子学生たちが私に同行したいという。
その出版社を運営する精神科医師が、私たちに滞在先として修道院に部屋を準備してくださる。個室にバスが完備されているわけではないだろうから、私たちは一緒にお風呂に入ることになるのだろう。
乳がんが発覚したあと、学生たちに乳房を切除する話をした。
実は、少なからず難しい病を経験している彼女たちに、
「病を得ても、人生のやるべきことを諦めず、働き続けることはできる」
「将来、彼女たちが乳がんになったときに、思考の手がかりになれば」
ということを伝えようと、おこがましくも思ったのだ。
病の深い絶望を乗り越えて生きてきたのは、彼女たちの方だった。
魔女になった今の私には、そのことが分かる。
彼女たちは、私の切除された胸を見てしまっても、私の傷痕と私の変化を敏感に感じ取り、ありのままを受け入れるだろう。
彼女たちに助けられていたのは、私の方だった。