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東野圭吾「透明な螺旋」と写真作品について

東野圭吾さんの作品と出会ったのは
ガリレオシリーズだったと思う。
ドラマ化されるということで、急いで本屋に走った。
『探偵ガリレオ』は短編小説で
当時の印象としては
予測もしていない方向からのトリックで
自分には到底解けないものである為、
大変斬新だった。
随分と前に読んだので過去形で書いたが、
今でももちろん解ける訳がない。

ところでタイトルの「透明な螺旋」
始まりはいつも唐突である。
人間が主人公なのだから、当然彼らの人生のある時点から始まる訳で、
私たちはその人生をある時点からある時点までを垣間見ることになる。
それはどの作家の小説であってもそうだ。
だが、主人公だと思っていた人が、
果たして主人公だったかと思わせるほど、
その周辺まで細やかに配慮しつつ描くのは、
この作家の性分なのだろうか。

今回の作品は、確かに螺旋だった。
一般的にはタイトルが主題に直接的に繋がることが多いように思う。
主人公がたどった人生の一部を一緒に読者が歩くのだから、
その方が読み手も納得がいく。
もしも自分が作品を描くとすれば、タイトルはそうなると思う。

しかし、この作品は私たち読者にしかわからない螺旋なのだ。
あるはずの螺旋が見えないから透明なのか
私たちにしか見えないから透明なのか
読者と同じ螺旋にまず気づくのは、シリーズの主役の湯川学なのだが、
彼もまた螺旋の一部分であるところが、
おそらく時間がかかる理由だと思われる。
結果螺旋を理解するのは、湯川学と読者だけである。

写真作品をテーマに合わせて選定していく際も同じことが言えるのだが、
主観が入っては、組み上がらない。
これはこういった思いで撮ったものだ、是非とも入れたいという主観が
テーマを分かりづらくして、結果、受け手には伝わらない。
まぁ、写真は視覚なので受け手がどう捉えても正解なのだが、
明らかに一連の作品の出来上がりは違う。

つまり、湯川学は一番の読者だと言える。
因みに写真作家も同じである(べきであろうと思われる)。

プロローグから始まりエピローグで締める。
かつて赤川次郎さんの作品を片っ端から読んでいた自分にとっては
安心感がある。
東野さんの長編作品も大抵そうだったような気がする。
ガリレオシリーズもいいが、新参者も次回作を期待したい。

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