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読後雑感 『脳の闇』 中野信子
「脳の闇」 中野信子 新潮新書 2023・2・5
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『本書は表面だけ読んでもそれなりに読めるようにはしたつもりだが、本意は声にならない声を聴くことのできる人だけが読めるように書いた。』
(『初めに』から引用)
のっけから挑戦的であるし正直である。
では、私には声にならない声を聴くことが出来るだろうかと怯んだものの、読み進めるうちに抱いた感想は、私も中野さんと同じように考えることがあるし、似た経験をしている、だった。
特に6章の『やっかいな「私」』で語られる中野さんの体験は、まるで私のことが書いてあるのかと、錯覚しそうになるぐらいに似ている。
小学校入学以前、中野さんは自分は異質であると強く感じていたそうだ。みんなと同じ空間にいるのに混ざり合わない、という体感は、私も持っていた。現在でも少なからず感じる。自分の回りにだけ広く空間が開いていて、お互い見えているのに関わらない感じ。
自分の周囲では整然と世界が進行しているのに、それを外から眺めている、演劇で言えばみんなは演者側で、私は1人きりの観客といった感じだろうか。
子供であればあるほど異質なものを敬遠するから、私もイジメにはあわなかった、無視とも違って、存在は認められてているけれど関わってこないというのが一番近いだろうか。
親から頑固で気難しいと言われ続けたことも同じだ。私なりの理由や理屈はあったけれど、それを言うとまた変わっていると思われるだろうと黙っていた。どうしてみんな、私の言うことを最後まで聞かずに笑うのだろうと、不思議だったし傷ついた。
正直な中野さんの心情の吐露に、いろんなことを思い出した。どちらかと言えばいい思い出ではなく、なるべく思い出さないようにしていたことが多かった。気分が落ち込んだけれど、同じ思いをした人がいるのだと慰められもしたし、根本的に解決できる問題ではないのだと知って、改めてがっかりしたりもした。
中野さんは脳科学者であるから、こういう場合にどのように脳が働くので、このような感情が起きると言ったことを科学的な観点から解説をする。けれどこれは学術的な論考を主眼とした著作ではなく、中野さんの「私についてのエッセイ」であると私は感じた。
エッセイという言葉の持つイメージは、軽くて楽しくて気軽な読み物であるけれど、もともと自由な形式で書かれた思索性を持つ散文(広辞苑 エッセーの項)なのだから、まさにその通りで、こうすればよりよく脳が働いて元気になれますとか、あなたの脳はこう分類されますとか、そういう白黒つけて、読者に満足を与える、ハウツーでもなく占いでもない。
最終章まで落ち込みながらも満足して読み終えて、私は声にならない声を聴いたかどうか、聞いたかもしれないと、少々得意げでもあった。
ところが、
『この本はバカには読めない本になってしまった。言い訳させてもらいたいが、私は特に、バカであることを悪いことだとは思っていない。が、個人的には嫌いだ。(中略)その意味ではバカに読めない本というのは理想通りといえば理想通りである。』(『あとがき』から引用)
とあって立ち止まる。
私は、きちんと読んで中野さんの体験に共感した。私も同じことがあった、自分だけじゃなかったと安心もし、異質であることを再確認した。
けれどそれは中野さんの意図を汲んでいることになるのか。果たしてどうなのだろうか。私は自覚がないバカなので、勝手に自己満足しただけではないのだろうか。
いっぽうで、そう考えられる自分は、中野さんが読者に期待した知性が備わっていることになりはしないかと、傲慢な満足感も得た。
そこまで来て、こう感じることこそが、何も判っていない、ということなのかもしれないと自戒して、それでもやっぱり、自戒できるのだから、私もそう悪くはないだろう、いや、それって勝手に自己満足ではないのと、ウロボロスのごとき厄介で始末の悪い状態になっている。
どうにも気分が落ち着かない。
最後に、引用部分は、私がこの部分に目を引かれたというだけ切り出しなので、たった数行の印象で判断せずに、ぜひ全文を読んでください。