見出し画像

地元の都市伝説を追う③〜もう一つの遥拝石と諏訪と月読命〜

こんにちは、明日晴れです。

今回は、地元の都市伝説①座間のペトログリフで触れた遥拝石と対になっている もう一つの遥拝石 についてです。


旧陸軍士官学校北遥拝所と雄健神社

 富士山公園山頂にある旧陸軍士官学校遥拝所は、実は遥拝所であり、ここから北へ約300メートル離れた座間キャンプ敷地内に北遥拝所(石のみ)と雄健神社(おたけびじんじゃ)の鳥居を見ることができます。

左下が遥拝石、中央が雄健神社鳥居(再建されたもの)
南遥拝石と瓜二つだが、穴に方位を刻んでいたかは不明瞭で判らなかった。
雄健神社 御由緒

 上記の雄健神社の御由緒を見るに、ここには天照大神、鹿島大神、大国主大神、靖国大神、香取大神、明治天皇と殉職者の方々が合祀されていたが、終戦時に米軍に辱めを受けないようにした為か、御祭神を長野県北佐久郡望月の里にある大伴神社に遷座させていた旨の記載がある。
 なぜ、遠く離れた長野県の大伴神社だったのか。

大伴神社と月読命

 大伴神社は、現在の長野県佐久市望月に所在する延喜式内社で、大伴氏とその子孫の望月氏の氏神社とされ、景行天皇40年に鎮座したとされる。
 祭神は 天忍日命(あめのおしひのみこと)、天道根命(あめのみちねのみこと)であるとされ、古墳時代には、すでに神社の基となるものが築かれていた。

月読命が大海原から竜馬に乗って、四方の河渓を見て周り、千曲川を遡って岩に登り、金色の弓矢を投げたところ、清水が噴き出したので当地へ遷座し、その岩に月の御影が残ったのでその岩を月輪石といった

https://tsukigoyomi.jp/index.html 月と季節の暦より抜粋

旨の伝承がある事から、月読命も祭神であるとの説もある。
 この大伴神社の境内には、白色の馬に似た生き物に跨り海を渡る武者が描かれているそうで、この生き物には鱗があるらしい。私にはこの生き物は龍蛇だろうと思える。海、龍蛇、清水と言えば、古代海洋民族の象徴であり、座間の信仰とも共通する。
 極論だが、上記の旧陸軍士官学校遥拝所の遥拝石は、この月輪石なのではないかとも考えている。
 大伴神社の龍蛇に「」の要素が足された理由は、この千曲川に境した高原大地が、後に朝廷直轄の牧場となり望月氏が管理する「望月牧」となった事と関わるのではと考える。

望月氏

 望月氏は、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
 望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を、8月の満月(=望月・中秋の名月)の日に朝廷に送っていた
 信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族に望月の姓が与えられ、家紋は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用いていた。
 鎌倉時代には、鎌倉幕府の御家人として望月牧で育んだ強力な騎馬軍団を擁し、望月重隆は鶴岡八幡宮の弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。
 室町時代には鎌倉幕府滅亡後の中先代の乱で北条時行と挙兵し、南朝側で戦った。中先代の乱には、諏訪大社の大祝・諏訪頼重親子も時行側で参戦している。
 戦国時代には武田氏に取り込まれたが、武田が滅亡した後、甲斐駿河地方に落ち延び、子孫が今もその地方に住んでいるとされ、また、望月氏の一部は甲賀忍者の筆頭格となっているそう。
 『神皇記』には「寒川比古命(サムカワヒコノミコト・相模国一宮寒川神社の祭神)は、月夜見尊の第一子で大山祇」であり、延暦(800年)の富士山噴火の時、麓にあった山宮阿相山神社の神官達は甲斐、駿河、相模にそれぞれ逃げ延びて、相模では寒川神社を建てた」とあるが、望月氏(大伴氏)の先祖が、大山祇月夜見尊なのであれば、甲斐や駿河の同族を頼って逃げたのだと思える。
 望月氏の家紋である九曜紋といえば、座間にある星谷寺というお寺の寺紋と同じである。

星谷寺 妙見菩薩

 こちらに祀られている妙見菩薩は、北極星を仏格化した「星の仏様」で、中世には武士の軍神として信仰を集めていた。
 お寺の御詠歌には
「 障りなす迷いの雲を吹き払ひ もろともに拝む星の谷 」
とある。
月もろともに拝むとあるので、星谷寺が元々あった「見知らずの森」と呼ばれた神域の星の谷から、月と北極星を共に拝んでいるようで「月」を重要視していたことがわかる。
 また、富士山公園山頂の南遥拝石にはナーガ(海の蛇神)と見られるペトログリフが刻まれているが、ナーガの正面に立つと、北方を見上げることになりこれを刻んだ人々も、月と北極星を拝んでいたように思える。

ペトログリフの前に立つと、北向きとなり北極星を眺めることができる。

 この星谷寺には、座間に住んでいた鈴木家刀匠として北条氏に仕えたとの説明書があるが、鈴木家に関わる伝説に下記のようなものがある。

文永八年(一二七一)九月十二日、鎌倉幕府は、日蓮聖人を捕らえ佐渡流罪とし、片瀬龍の口の刑場で首を刎ねようとしました。
当地(座間)に住む刀匠鈴木弥太郎貞公が鍛えた太刀 蛇胴丸を、刑吏の武士が振りかざした刹那に江の島の方より、突如として光り物が現れ蛇胴丸は砕け散りました。

日蓮聖人御勧請三十番善神縁起
三十番神社

 刀の名前が、龍蛇が籠るとされる洞穴を表しているので、鈴木家の鍛冶技術は海洋民族に関係していると思える。
 この鈴木弥太郎貞勝の求めで、日蓮聖人が地を穿ち湧き出したとされる「番神水」という湧き水が神社の裏手にあり、蛇・清水・鍛治・星の繋がりが、ここでも確認でる。
 個人的には、この星の谷周辺に馬頭観音像が多い理由の一つが、この諏訪周辺と鎌倉(北条氏)との関係にあると思っているのだが、その起源は月読命と大山祇(富士王朝)まで遡れる。 

諏訪の土着神

 信濃から甲斐を経て鎌倉へ続く川や道沿いには、おそらく太古から人の往来があったと思う。
 諏訪大社の御祭神は建御名方(タケミナカタ)だが、元々はそこに洩矢神(モリヤシン)武居大伴主神(タケイオオトモヌシノカミ、別名:武居夷神 タケイエビス/タケイエミシ)という二柱の神がいた。
 この洩矢神を祖とする守矢氏は、諏訪上社の神官であり静岡県方面から入植した部族だそうで、この守矢氏が祀るミシャクジ神は蛇や石棒などと関連が深いとされている。
 更に、武居大伴主神の別名が、夷(エビス・エミシ)であることから、エビス=事代主(蝦夷の祖)であるとわかる。この大伴主神は、建御名方が諏訪に落ち延びて来た際、洩矢神に「侵入者と妥協すべし」と洩矢神を説得している。
 洩矢神が、元々大山祇の治めていた富士王朝から移住して来たのであれば、大山祇の子孫である大国主の子である事代主が、兄の建御名方は大山祇というルーツで繋がっているとして、洩矢神を説得できると考えたのも頷ける話だ。
 現に、建御名方と洩矢神は他方を排斥する事なく信仰上融合している理由もこの辺りにあるのではと思える。

 相模国三ノ宮 比々多神社には、縄文時代からの祭祀跡があり、鶉甕(うずらみか・神奈川県重要文化財)と呼ばれる須恵器が出土している。
 『新編相模風土記稿』に、「鶉瓶と名付口直径六寸八分高一尺五分、石凝姥命(いしこりどめのみこと)作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨(長雨)の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験あり」と記されている。
 この石凝姥命(いしこりどめのみこと)は、八咫鏡を作った神で、一説には大山祇の子であるともされ、宮下文書によると大力男命(タヂカラオノミコト)の別名ともされている。
 タヂカラオは、天岩戸隠れで天照を引っ張り出した神だが、この岩戸を信濃国戸隠山に投げ飛ばしたという伝説があり、このタヂカラオの父・思兼神(オモイカネ)は『先代旧事本紀』で、信濃国に降り立って信乃阿智祝部の祖になり、知々夫国造の祖ともなったとされる。
 埼玉県秩父市に鎮座する秩父神社には、思兼神の他、知知夫彦命、天御中主命(アメノミナカヌシ)が祀られており、アメノミナカヌシは妙見菩薩=北極星と同義だとされている。
 また、長野県下伊郡阿智村の阿智神社には、思兼神の他、大山咋命、建御名方を祭神としており、奥宮には磐座がある。
 
 太古から続く磐座と星の信仰は、月読と大山祇の一族に歴史の影でひっそりと受け継がれている。

Google mapより

 左から出雲大社(大国主)、伯耆大山(大山伯耆坊が住んでいた山)、鈴鹿神社(京都)、阿智神社(思兼神)、鈴鹿神社(山梨)、富士山、大山阿夫利神社、鈴鹿神社(座間)、旧陸軍士官学校遥拝所(遥拝石)は、ほぼ一直線上にある。

 林千勝氏の著書『日米戦争を策謀したのは誰だ!ルックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿、そしてフーバーは』によれば、日本陸軍と昭和天皇は最後までアメリカとの戦争には反対していたという。
 当時のアメリカは、日本の民族・文化や歴史を物凄く研究していた。
 終戦後、そのアメリカの目を欺くために、天照大神から続く神武天皇の血統に悉く征服され、歴史から隠されてきた月読命(蝦夷)側の大伴神社に雄健神社の祭神を移したのかも知れない。本当は、祭神だけではなかったかも。

次回は、鈴鹿の前に居たとされる「アルカ神」を追います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?