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ななめ

わたしがわたしである所以。

縦でも横でもなく、ななめが好きです。だから名前もななめにしました。

人の言葉をそのまま受け取れなくて、裏を読み取ろうとしてしまう、人の考えを読んで意に沿うように自分を振る舞おうとしてしまう、そんな自分を表していると思う。


わたしは4兄姉の末っ子です。
一番上は兄、加えて姉が二人います。

歳の近い姉とは昔から折り合いが悪く、いわゆる機能していないライバルみたいな関係でした。彼女のしていたバレーをわたしもやって、彼女のしていた陸上をわたしもやって。彼女からしてみたら心底嫌だったと思います。走っても走っても後からゴミのようなものがついて回るのだから。今でもほとんど連絡は取りません。家族伝いで消息を知るくらいです。

末っ子は要領が良くなることが多いと思います。勉強も人間関係の築き方も、スポーツも。

なぜなら上を見ているから。

これをしたら怒られるんだ、これをしたら褒められるんだ、こうしたら上手くいくんだ。全部経験する前に答えを教えてもらっているのです。ポケモンで言うふしぎなアメ。中身の伴わない頭でっかちな経験値だけが積もっていきます。だから器用貧乏なんてお土産がついてくるんですね。


わたしの家は幸せに溢れるような家庭ではありませんでした。でもめちゃくちゃ悪かったとも思いません。
父は賢い大学を中退し私塾の門戸を開きました。晩年に生徒がいなくなってからは毎日焼酎を浴びるほど飲んでは家事育児を一切せず、家族を怒鳴りつけ、食事を投げつけ殴る日々でした。わたしが25のとき、父は67歳でこの世から居なくなりました。母以外は誰も泣いていませんでした。

母はわたしを生後2ヶ月で託児所へ預け、朝から晩まで病院に勤め上げていました。いわゆる理事まで務め、仕事人間という言葉がぴったり当てはまるような自分にも他人にも厳しい人でした。わたしが辛いとき、心に寄り添ってもらったことなど一度もありませんでした。


詳細は書かないけれど兄姉も問題児でした。たくさんそれぞれ問題を起こしていました。他にもきょうだい喧嘩をしては一番下のわたしが誰からの矢面にも立っていたような気がしていました。踏まれたりココアをかけられたり、されたことはたくさん思い出します。わたしは一番弱かったから何もできずただ暴力を受けるだけでした。どうやったらその場を切り抜けられるか、それしか考えていませんでした。この頃から人と争うことが極度に苦手になりました。


保育園では目立つ子の後をついて回り、寒空の下で縄跳びを跳び続けた記憶があります。もうやめない?と言ってもその子がやめないと言うので辞められませんでした。手はかじかんでひび割れて、うまく動きませんでした。

小学校では優等生でした。幼少期に刷り込まれたいい子でなくてはならない、人より優れていなければならないという誤学習を体現する段階でした。
委員会の委員長や、生徒会長選挙の推薦係として演説をするという経験もしました。自主学習もクラスで一番頑張って、がんばったねシールをたくさんもらいました。


中学校では校内一厳しいと噂になったバレー部へ入部し、噂の通り厳しい3年間を過ごしました。よくある、顧問が不機嫌になったら謝りに行く、帰れと言われたら帰らない、また帰れと言われたら一度帰ってまた来るといったような具合でした。体罰絶頂期で首をつかまれ頭を叩かれ、お前の所為で負けたという精神攻撃なんて日常茶飯事でした。記憶にある一番古い死にたい記憶はこのときです。


高校では少しそれまでのきつさから離れられたと思います。入試は前期と後期があり、前期の自己推薦で受験しなぜか合格しました。本当は後期に違う学校に入る予定だったので、本当に偶然です。バレー部顧問に入学当日にバレー部へ誘われたので入部しました。わたしの前期入試の面接を担当してた人ぽかったです。後にわたしと両思いになる先生でした。

高校ではいまでも付き合う友達ができたました。遠方でなかなか会えないけれど、それでも一生の友達だと思います。


大学はセンター試験を利用し、一般的な国公立大学へ入学しました。そこにはわたしよりすごい人たちがたくさんいて、スポーツでも頭脳でも追いつかなければ、といつも息苦しく頑張っていました。
同学年の同じ条件の人を追うってこんなにつらいんだと初めて実感しました。

人間として暗かったわたしはなかなかきらきらの同期に馴染めず、しばらく鬱々とした気持ちで過ごしていたことを記憶しています。


でも親友もできたのです。バレー部に入って友達もできました。今でもたまに会う友達。年に一度でも会えると嬉しいなと思えます。
 

このときに出来た親友は、今わたしがうつで苦しいときに毎日電話をしてくれたり、わたしの泣き言に付き合ってくれたりします。そして決して、死ぬなとか、生きてればいいことあるとか、そんな陳腐な言葉を一切使わずただわたしの死にたい気持ちに寄り添ってくれるのです。思い出の清算にかかる時間は人それぞれだと言って、わたしに自然とエネルギーが溜まるのを静かに待ってくれています。時にはわたしを想った厳しい言葉も使ってくれます。ありがたいです。感謝しかありません。一生大切にしたいです。


社会人になって誇れない会社に入ったのに、お客さんに感謝されて嬉しかった経験もあります。転職して入った会社は人にも勧められないほど根っこが腐りかけてる会社で、わたしは精神を病んで退職しました。
病んでいる間に派遣社員になり一度レールから外れましたが、恩人との縁があって今の会社に正社員として居させて貰っています。恩人は一生恩人のままです。

結婚も出産も離婚も経験しました。
彼氏ができて妊娠して振られて中絶も経験しました。そしてうつ病になりました。
恩人からはドラマが1本できそうだと言われました。


わたしの帰る場所はありません。
たくさんの人に支えられて生きてきて、振り返るとわたしの周りにはいい人しか居ないと感じるのですが、やっぱりわたしの帰る場所はないと思うのです。温かい家族もなく、温かい家庭の作り方もわからず、人との関係性の築き方もわからないまま大人になり、ただ一人で毎日自分と向き合うだけの日々です。

わたしはきっともう人を好きになれません。あれだけ泥沼で嫌いと言われて死にたくなって、うつになって。
また人を好きになって幸せになれる将来が見つかりません。生きている意味も見いだせません。意味なんて万人ないのかもしれませんが、それでも人間は意味を求めてしまう生き物だと思います。


もう、思考がななめ。
縦にも横にもなれない、ななめ。
歪な家庭に生まれて、歪な環境で育って、優等生でなければならぬと自分で自分に重石を乗せ、期待を裏切らないようにと自分でレールを敷き、そこから踏み外さないようにとした人間の、末路。


笑ってくれますか。
こんな人生を歩んだわたしを誰か笑ってくれませんか。

そうして一通り笑ったら、そっと抱きしめてくれますか。


わたしは誰も傷つけたくないのです。
泥沼の彼のことも傷つけたくありませんでした。でもわたしの不意な一言でたくさん嫌な思いをさせてしまいました。

どうしようもない人間なのです。
救いようのない人間です。
だから救われないのです。


まだ生きることができるのならば、自分の足で歩けるようになりたいと思います。




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