見出し画像

正義論から考える、差別のなくしかた

今回はタイトルにもあるように、アメリカの哲学者ジョン・ロールズの正義論を元に主観を交えながら差別について考えていきたい。
あくまでも本題は差別についてなので正義論についてはざっくりの説明とする。

ロールズの言う正義とは、みなが公正であることだそう。そして公正性は三つの原理(本来は二つだがここでは三つの原理とする)から成り立つという。
一つ目は平等な自由の原理。これは他者の自由を侵害しない範囲でみなに平等に与えられる自由である。
二つ目は誰もが同じスタートラインに立てる機会均等の原理。これによって誰もが自由競争をできるようになる。
そして三つ目は格差の原理だ。これは二つ目の自由競争で生じた格差を是正するため、格差は社会で最も不遇な人々の生活を改善するものに限り認めるというもの。

ロールズはこの原理が正当なものかどうかを問うために”無知のベール”というものを考えた。この無知のベールをかけられると自分に関しての情報が全くわからなくなるものとする。自分がどこの国の人間で男なのか女なのか社会的立場はどうなのか裕福なのか貧乏なのかわからないといった状態になるということだ。この状態のことを原初状態(将棋やチェスでいうと最初の駒の配置のこと)という。

この正義論に出てくる無知のベールを使って差別について考えていこう。
ベールをかけられているので視界も遮られてしまうため相手のこともわからないこととし、相手も無知のベールをかけられているとしよう。
みながこの原初状態で社会秩序について話し合うとき、どういったことが起こるだろうか。きっと誰もが中立な意見を述べ、結果としてどの立場から見ても中立な結論に至るだろう。なぜなら、無知のベールを外したときに誰だって自分に不利益があるのを避けようとするからだ。

例えばこのベールをかけられている者同士で女性専用車両の必要性について話し合ったとする。自分の性別がわからない状態で必要だと判断するだろうか。もし自分の身体は男性だが心が女性だったらどうするだろうか。その場合、身体が男性であるがために女性専用のほうには乗れないのか。そう考えていくと、そもそも性別によって車両をわける必要がない、もしくはあらゆる性別の人の立場を考慮してそれぞれが乗れる車両を導入するという考えにはならないだろうか。
現実では女性専用車両は導入されており、考慮されているのは女性だけである。では先ほども言ったように身体と心の性別が一致してない人はどうすればよいのか。そういった人は本当は嫌だけど我慢して男性と同じ車両に乗っていたりそもそもそういう交通機関を避けている人もいる。
このような不公平性は日常のあちこちにあふれている。これは本当に公正だろうかと問いたい。日常生活の、ある一定の場面においてある一定の人だけが不利益を被っている状況はとても公正な正義とは言い難いものだ。言い換えれば、少数派の犠牲の上で多数派は幸福を享受しているという功利主義的構造になっている。

私は日常生活においての功利主義的な考え方を否定したい。なぜならそれが差別やいじめを助長させるからだ。しかし一部の限られた状況下においてのみ功利主義は認められるべきだ。例えば災害発生時の医療の最前線では功利主義を元に考えられたトリアージ(命の選別)は必要だと思う。
そういう状況下でない日常生活ではやはり、誰もが公正公平であるべきだ。

格差の問題に挑んだロールズだが、今回私が正義論を通して言いたいことは、無知のベールが差別をなくすことへのカギになるのではないかということ。
みなが原初状態で物事を考えていけば自ずと差別はなくなるのではないか。それともう一つ、本来多数派の人でも無知のベールによって実際に少数派の側に立って物事を考えることによって少数派の不遇を実感・理解できるのではないだろうか。
この無知のベールという考え方がアファーマティブアクション(少数派に対する差別改善の取り組み)への一歩になると私は確信している。

”ドイツからはコメディアンが出ないし、イタリアからは経済学者は出てこない。アメリカからは哲学者は出ない”  ジョン・ロールズ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?