教育ってなに?

教育って本当に必要なのか?というのが今日の問いだった。

学校と教育を体系づけたのは錬金術師だったらしい。(イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』、pp. 54−55.)それより前、宗教革命以前には、教育というものは知られていなかったそうだ。今の日本において、教育を受けることは当たり前である。義務教育においてはもちろん、高校教育もほぼ必須とされていると言っても過言ではないだろう。

ここで私の思考の広がりは2方向ある。

1つ目は、教育は必要であると最終的には主張するが、教育の必要性を問う方向である。イリイチは著書において、「教育とは、科学という魔術によってつくりだされた環境に適応する新しいタイプの人間を生み出す錬金術的過程の探求と」(同掲載、p. 55.)なり、「大多数の人々はより高い段階の啓発にはふむきだと認定され、人工的環境で恵まれた生活をすごす準備ができていないものとして見捨てられねばならないことが、常に明らかとなった。」(同掲載、p. 55.)と主張している。つまり教育は、錬金術に適した人間をふるいにかける道具であり、大半の人にとって、自分が適応外であることを知るためのものであるということだと思う。ここで言う錬金術は、今で言う論理的思考とか、数学ができるとか、そういったたぐいのものだと、私は考える。

ただふるいにかけられるために教育があるなら、いらいないと思う。今の学校教育はイリイチの批判する、ふるいにかけられるための教育になっているのかもしれいない。だから、色んな人がシュタイナー教育とか、それぞれの人間性を伸ばす教育だとかを必死に考案しているのかもしれない。教育という言葉ばかり出てきて、わけがわからなくなりそうだが、教育はそれでも必要であると考える理由は、「教育=ふるいにかけられる」ではないところを目指している人がいると思うからである。そして、ふるいにかけられ、残された側は、一方的に社会に否定され、生きていく、というような構造を壊そうとする方向に、みんなが優しくなれる世界が在るのではないかと思うのだ。そっちに向かっていきたい。

もう一つは、教育や科学という言葉のわからなさについて。小学校から高校にかけて、理科、科学、化学、勉強という言葉の括りがわかりにくいなと思って生きてきた。わかりにくいのには、理由があったのだ。上手く言葉にできるくらい理解しているかはわからないが、言葉にしてみる。

まず、現代の教育には、錬金術から派生したものと、古代ギリシャから続く哲学とがごったになっていると思う。しかも、その2つが「科学」に含まれている。化学は錬金術から来ていて、数学、物理学、生物等は哲学者寄りという感覚を私は持っている。どちらも関わりがあるけれど、今の科学は実践、実験等、錬金術系に結びつくものが多い。でも、その今の科学にも哲学は関わっているのに、今の科学には哲学の話が出てこない。だから、科学の教科書で昔は哲学者も科学者だったのですとか書いてあっても全然ぴんとこない。あーーー上手く言えない。悔しい。

小さい頃の気持ち悪さ、わからなさっていうのはきっと大人でもうまく説明できる人が少ないってことじゃないかと思う。

無理やりだけど、今日はこれで。


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Asuka Onodera
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