「オーカッサンとニコレット」のニコレットはパパゲーナみたい
「オーカッサンとニコレット」の最終場面近くにニコレットは肌を黒くしてオーカッサンに会いに行き愛を確かめる。
そしてオーカッサンが今でも彼女を愛していて結婚もせず待っていることを確かめるとニコレットは実家に帰り、九日間養生して肌を白くして(*)姫の血筋ゆえ着飾ってオーカッサンに会いに行く。
これって、モーツァルトの「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナみたい。パパゲーナはおばあさんに変装してパパゲーノに恋人よと会うがパパゲーノに笑われる。パパゲーナは一旦隠れて話が進行し、今度は可愛らしいパパゲーナとして再びあらわれ、パパパの歌を歌う。この歌はCMでも使われて有名で明朗である。そんな感じを思い出させる。
オーカッサンは一夫一妻で適当に政略結婚してニコレットを愛人にするという選択肢はなくストア派=キリスト教の倫理や道徳の中にいる。この話には告白するなどして自己浄化という要素、服従することによる自己放棄、という概念がないように思える。なんたって話のはじめにニコレットと地獄に行ってもいいと歌うのだから。
彼岸での愛の成就でなく現世での愛の成就であるが倫理観はキリスト教時代のものである。そうでないと愛の重要性がひきたたない。逆にいうと一夫一婦になることで愛が引き立つようになったということか。愛する人はたくさんいます、では身の危険を犯して塔から布ロープで降りたり堀に飛び込み逃げるなんてしないだろうから。
源氏物語だったら宇治十帖で浮き舟が匂宮と薫の三角関係を清算する為に身投げするために屋敷から逃走する、川に辿り着く前に失神してしまう(川に飛び込んが流れ着いたという解釈もある)。でもそれは愛の成就でなく死を選び現世に戻ってきても男二人とはもう会わない選択をしたのだった。
それはともかく中盤ニコレットが船で流されたところである都市に辿り着きそこの姫であることが判明するというのもフィガロっぽくていいね。してみるとモーツァルトのオペラ台本を書いた人について過去の作品の影響について調べるのも面白い。
(*)では12世紀に肌で人の貴賤を決めているようにも見える。肌に色がついているためにそこでニコレットは名乗れなかった、名乗っても下に見られ信じてもらえないことを恐れたのではないかと考えられる。
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