コリャードによる懺悔録 日本中世のキリシタン(カトリック ドミニコ会)による性の告白 1 事例紹介
キリスト教の告白という実践は、単なる告白でなく複雑な歴史を持ち「真理」を語る方法として練り上げを要したものであるが、今はそれは置いておいて岩波文庫から引用しよう。エロ表現が苦手な人はここで閉じてください。
キリシタン信徒から聴聞司祭への年一回の告白である。
6番の掟 邪婬を犯すべからず から
と延々と続く。微に入り細を穿、細かく性の交わりが描写される。
相手が処女だったので奪うわけにもいかず、別の方をつかい子供ができないようにしました、かな。
男色について
日本で男色は普通にあったとエンタメ的に言われる根拠に使われているのかもしれない。源氏物語中の源氏と小君を思い出す?
さらに性的倒錯:
獣姦と、その後は乱行?もしくは性行為をお互いにみせあいながら?
このような文章を読むと宮本常一の「忘れられた日本人」の「土佐源氏」を思い出す。土佐源氏が本当にある人の現実のストーリーと考えられてはいないように、この告白集も何人かの語り分けられているけど、一人分の中でさえ寄せ集められているように感じる。告白として聞き出す技術の習得のためでもあるので例文としての性格も強いと考えられる。
これらの文章が日本語はローマ字表記、ラテン語に翻訳して見開きになってローマで印刷されたらしい。これが艶本、ポルノではなく大真面目な宗教書、救いへの方法論として刊行されているのである。それはなぜだろうか?というのがこのシリーズのつもりである。
そしておそらく今でもそれはカトリックでは続いているのである。その元締めはローマ教皇である。
このようなキリスト教カトリックでの告白について、以前にアベラールとエロイーズについてフーコー「性の歴史」を使って考察したので下記参照ください。その記事とは視点を変えてまとめるつもりです。
ミシェル・フーコーの見立てによれば、告白という実践は上長による信者の統治技術であり、信者を羊のように導くグレゴリウスの司牧論と結びついている。司牧論は国家の統治技術として個人を国家がどう捉えるかという国家理性へと結びついていく。
性による生殖は国家の経済そのもので近代の総力戦に国民の人口が多ければ有利であることはロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナを見れば明らかである。そして告白はシャルコーやフロイトの精神分析へと結びついてドゥルーズ=ガタリのオイディプスの三角形へと流れ込んでいく。
性を語ることはタブーであるどころか社会体制が性を語らせていた、のである。
したがって当時の告白を好事的に読む我々はそれを笑ってはいられないのである。フーコー的な、ある意味図式的な、テーマの切り分けで江戸の前後の文献を倫理や政治思想や近松門左衛門のような文学から読み取ることはできるのか?そこまでひろげられるのか、考えてみたいのである。