大河ドラマ「光る君へ」の源氏物語

をようやく見れた。
いよいよ源氏物語の執筆が始まった。
源氏物語には異本が大きく二系統あることが知られ、一条帝に出したものと、さらに推敲したものがあるのではないかと、学者のあいだで議論されていた、出典は失念しました。
 それをドラマ中でやっていて思い出した。
 ただし、藤原定家が2回、校定版を作っているのでそのせいにしている説もある。
 ドラマ中で、天皇家のスキャンダルを描いた「源氏物語」に道長が躊躇したのはリアル路線で良かった。私たちが道長だったら、あの1帖を現天皇に差し出せるか?当時と今で天皇の位置付けが変わっているとしか考えられない。
 現人神の概念後の天皇が刷り込まれている我々には源氏物語は「あさきゆめみし」のようなファンタジーものとしか受け入れられない。
 今の天皇か先代の天皇の奥様が亡くなりその息子が臣下に出され、天皇の後妻に手を出して皇統を乗っ取る話。
 宇治十帖に至っては東宮候補がフラフラで歩きライバルの男と女を取り合う話。まるでセジウィックの話そのもの。ホモソーシャルでホモホビアなマッチョな家父長制の背景をいかに紫式部が内部崩壊させたか、しかも姫への警告、こんな自分だけを大事にしてくれない男に引っかかっちゃダメよ、も含んでいる。
 皇統を乗っ取るクーデターなので海外では源氏物語の政治性が議論されて、日本でもようやくそのような言い方がされるようになったと思う。それまではわかってるけど隠していたような。それはバブル期の源氏物語に熱い視線が注がれた時に出版されていた記憶がある。
 例えば教科書にのせているのは紫の上との出会いだけ。自分が思いを寄せる女性によく似た幼女が可愛いから連れて帰りました。これだってかなりキモいが。私が高校生だったときも同級生がドン引きしていた。
 先日放映されたドラマの展開の第一帖の桐壺は定子のことを諌めることを白居易の長恨歌になぞらえているのでまだ良しとしよう。この後こんな物語が続くことに現在の右翼の人たちは耐えられるのであろうか?戦前のある筋のように源氏物語は国家不敬の小説と烙印を押すべきでは?平安時代にそんなことがあったことを窺わせる小説など今日の2600年続く皇統を揺るがせるもので国益に反する、とか?
 それをキャンセルするために天皇は「人」なんですねえ、というセリフがドラマで繰り返されたのは現人神になっていない天皇の強調であろう。
 現代の天皇家の姫でも海外についていってしまった姫がいた。あれを膨らませた小説が今のシン源氏物語になり得る。膨らませ方としては離婚したり、海外で不倫したり、しかも夫婦で。そんな内容に我々は耐えられるだろうか?それとももうそんな小説はあるだろうか。逆にすでに書かれているが出版できないのであればそれは表現の自由に抵触するのだろうか?
 矛盾するが、ついてはぜひ古文で源氏物語を味わってほしいです。


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