「論語」は自己および他者を育てる要素もあり「真理の勇気」の概念も持っているが、復古政策と親近性が高く、賛美するには批判的要素を確認する必要がある。論語を元にした儒教は武士の支配体制の道具であった。
下剋上をよしとしてきた武士は自らが政権を握った時、自分たちに下剋上されると困るので、社会を保守化・固定化する必要に迫られ儒教を奨励し学者を抱えた。ところがそのような学問を深める中から賀茂真淵は儒教が盛んだったはずの中国で国が乱れていたので儒教は空理空論と手厳しい。
さらに賀茂真淵や本居宣長らがさらなる日本の起源を日本書紀や万葉集などを読み考えた。そうしたら天皇が重要ということになり国学へ傾斜。王政復古や尊王攘夷などの概念が出てきた。将軍・幕府は日本の統治にいらないんじゃない?そのような思想の流れが本として流通し読まれることで武士の身分保証をひっくり返したわけなので興味深い。
渋沢栄一の「論語と算盤」の「人格と修養」にも儒教が衰退したと嘆いている一節がある。
以上、和辻哲郎の「日本倫理思想史」3、4巻からの私のまとめである。もちろん和辻哲郎はリベラル寄りの見方なので儒教をよしとする人から見たら違って見えると考えられる。そのような本があれば読んでみたい。
というわけで、儒教を元にした権力闘争を知ると私はとても手放しで「論語」の通りにしようとなどと思えないしいうつもりもない。
さらに和辻哲郎の本を調べていたら「孔子」という本があり
とあり、私がここで展開していたこととかぶったら正当性を主張できるし、何より意外とそのような本がない。なぜならプロにとっては恐れ多いことかもしれないし、アマチュアにとっては実名でやっている人には大変だろうし、私のような匿名の無責任の立場がいいのかもしれない。論文としてまとめれば反論が出たりしてフィードバックができるがこのドキュメントはせいぜい50回アクセスされるくらいで気が楽ではある。
さて、和辻哲郎は論語の本文校訂や本文研究についてや解釈の難しさについてもちゃんと述べているが、その学問範囲は中国の学者の意見は入っておらず日本の中だけのようである。そこまで気にするなら中国での百家争鳴状態の確認などにも興味が湧いてくる。さて、学而編について和辻哲郎は下記のように書いている(青空文庫より)
名利には存しないというくだりが良い。私も注意を惹かれたしソクラテスが自己の魂を大事にしたことや後のストア派との食いつきがいいから。
次は長くなるが一気に引用:
意外と和辻哲郎は政治的な文書と特定を急がずに家族のことなどを話題にする。家を捨てるというのは仏教の出家による解脱を対比としてあげているのだろうか。学而編8である
この文はわかりにくいので青空文庫の訳に頼ろう
和辻哲郎は前半の「子曰く、君子重(おも)からざれば則ち威あらず、学べば則ち固(かた)くなならず。」は後回しにしている。下村湖人の解釈と逆で後半の友との関係からはじめそれから前半の己の態度へと戻っていく。解釈が難しいことがよくわかる。友との関係についてすぐ頭に浮かぶのはプルタルコスであるが、残念ながら私はプルタルコスを読んでいない。
さて、和辻哲郎のソクラテス観を確認しておこう:
論語の会話が極めて切り詰められたものであること私も指摘したが、和辻哲郎も同じようにソクラテスと比較して述べている:
ソクラテスの側へのコメント
ソクラテスの問答の特徴を下記のように捉えている
古代中国では魂の問題が重視されていなかったというのは、私は森三樹三郎氏の本で確認していたが、和辻哲郎がまとめていた頃はまだそのような解釈はされていないようである。あるいは森三樹三郎氏の説は今認められているかどうか確認していない。
以上、和辻哲郎の「孔子」で論語について興味深いところを眺めた。
西洋哲学はソクラテスから始まると言われる。大きく時代はくだるが、今の私たちがカントの純粋理性批判で神や魂の永遠を議論できるのかどうかという議論を考える、などというテーマがあるとして、今回取り上げた「論語」を手始めに神や魂のあり方についてギリシア哲学と中国の儒教、仏教、日本の神道とこれだけ違っていることが明らかとなった。西洋での考え方をどう結びつけ、自分の何を考えていくのか「自己への配慮」へのようやくのスタートラインの気がする。
あたかも映画「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」マット・デイモン主演で精神科医から君は頭がいいが、自分は何がしたいんだ、という簡単な問いに答えることができない、というセリフが「自己への配慮」として説得力を持つように。 この映画、実は結構宗教的に凝っている。主人公はアイルランドのカトリック。精神分析を受け精神分析学的な告白を行うが、何になりたいと言われると「羊飼い」と答える。カトリックの「司牧論」を思い出すとこの羊飼いは人々を救済する司祭を指す。精神分析医はそのメタファーに気が付かずスルーする。髭を生やした風貌からユダヤ人ではないかと思う。人々を導くような人になる文書が「司牧論」であり、その技術は技法上の技法と言われている。それゆえ、主人公は彼のトラウマを「告白」を聞くことで和らげてくれた精神科医と同じような役割を果たしたいと考えている。あるいは父の象徴である精神科医と自己を同一視するドゥルーズ風のオイディプスの三角形を考えるべきかもしれない。その場合あの数学者がもう一つの角である。
下記に司牧論を掲げる。この日本語版はないのでChatGPTによる訳である。
フーコーは「自己への配慮」はキリスト教の「自己の放棄」によって失われていくと指摘している。そしてキュニコスにより後代に伝えられていくという筋書きをとっていた。しかし、司牧論で統治するものの務めとして自己を節制したり、学び続けたりすることで復活しているのではないのか?それついては別の問題である。
これでこのシリーズ「論語」と「自己への配慮」おしまい。
PS 今は渋沢栄一がお札の関係で脚光を浴びています。彼は女性を持ち上げ、フランスで一夫一妻制をみたにも関わらず公然と妻妾を生涯持ち続けてきた、そのダブルスタンダードの正当化を調べたいと思っています。フランスでも一夫一妻制のフリして愛人いるのが普通というのを見ていたんでしょうけど家でどうどうと妻妾を囲っていたのが凄すぎます。
*このテーマのシリーズこれで一旦終わり。