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その2 アレクサンドリアのクレメンスにおけるパレーシアとエクソモロゲーシス(興味ある人向け)
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第一回に続きます。
今日の参照ページはこちらです
p103, 121, 136, (次回以降 165, 250, 259, 260, 271)
原本は下記
http://khazarzar.skeptik.net/pgm/PG_Migne/Clement%20of%20Alexandria_PG%2008-09/Stromata.pdf
pp103
3.9.65.1 τὴν αὐτὴν αἰτίαν λεχθήσεται ἡγεμών. αὐτίκα ἣ προκατάρξασα τῆς
παραβάσεως ζωὴ προσηγορεύθη, διὰ τὴν τῆς διαδοχῆς αἰτίαν τῶν τε γεννωμένων τῶν τε ἁμαρτανόντων γίνεται ὁμοίως δικαίων ὡς καὶ ἀδίκων μήτηρ, ἑκάστου ἡμῶν ἑαυτὸν δικαιοῦντος ἢ ἔμπαλιν
3.9.65.2 ἀπειθῆ κατασκευάζοντος. ὅθεν οὐχ ἡγοῦμαι ἔγωγε μυσάττεσθαι τὴν ἐν σαρκὶ ζωὴν τὸν ἀπόστολον, ὁπηνίκα ἂν φῇ· ἀλλ' ἐν πάσῃ παρρησίᾳ ὡς πάντοτε καὶ νῦν μεγαλυνθήσεται Χριστὸς ἐν τῷ σώματί μου, εἴτε διὰ ζωῆς εἴτε διὰ θανάτου. ἐμοὶ γὰρ τὸ ζῆν Χριστὸς καὶ τὸ ἀποθανεῖν κέρδος. εἰ δὲ τὸ ζῆν ἐν σαρκί, καὶ τοῦτό μοι καρπὸς ἔργου, τί αἱρήσομαι οὐ γνωρίζω· συνέχομαί τε ἐκ τῶν δύο, τὴν ἐπιθυμίαν ἔχων εἰς τὸ ἀναλῦσαι καὶ σὺν Χριστῷ εἶναι, πολλῷ γὰρ
3.9.65.3 κρεῖττον· τὸ δὲ ἐπιμένειν τῇ σαρκὶ ἀναγκαιότερον δι' ὑμᾶς. ἐνεδείξατο γάρ, οἶμαι, διὰ τούτων σαφῶς τῆς μὲν ἐξόδου τοῦ σώματος τὴν πρὸς θεὸν ἀγάπην τελείωσιν εἶναι, τῆς δὲ ἐν σαρκὶ παρουσίας
3.9.65.1
「同じ理由が指導者によって語られるだろう。すぐに、それ(生の概念)は違反の始まりとなり、生命という名前がつけられる。継承の原因により、すべての生まれた者や罪を犯した者は、正義を行う者と不正を行う者と同じように母としての役割を果たす。私たち一人一人は自らを正しいとするか、逆に不従順を作り出す。」
3.9.65.2
「だから私は使徒が肉体の生活に隠された意味を考えるべきだとは思わない。彼が言うとき、むしろ、私は常に、今でも、私の体の中でキリストが栄光を受けるように堂々と語り、彼が生きることでも死ぬことでも。」
3.9.65.3
「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益である。もし肉体の中で生きることがあるなら、それも私にとっては働きの実であり、私はそれを選ぶかどうかはわからない。私は二つの間で引き裂かれており、解放されてキリストと共にいることを望んでいる。なぜなら、それははるかに良いことだから。しかし肉体に留まることはあなたたちのためにより必要です。」
前後関係を読んでなくて理解して申し訳ないのですがどうも使徒的活動や肉体的活動は受肉のキリストと同等と言っているように思います。その上で使徒的存在に従順になれと言っているように思います。キリストが栄光を受ける、というのは中世ロマネスクで重要なモチーフでした。
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ロマネスク時代はアレクサンドリアのクレメンスよりも9世紀くらい後でしょうか。イメージがあっているか議論の余地はありますが参考までに。このようなキリストが自分の体の中で堂々と語ることがパレーシアであると。
次いきしょう。
p121
4.6.33.1 στώθησαν ἐν τῇ διαθήκῃ αὐτοῦ. διὰ τοῦτο ἄλαλα γενηθήτω <τὰ χείλη τὰ δόλια· τὰ λαλοῦντα κατὰ τοῦ δικαίου ἀνομίαν. καὶ πάλιν· ἐξολεθρεύσαι κύριος> πάντα τὰ χείλη τὰ δόλια
4.6.33.2 καὶ γλῶσσαν μεγαλορήμονα, τοὺς εἰπόντας· τὴν γλῶσσαν ἡμῶν μεγαλυνοῦμεν, τὰ χείλη ἡμῶν παρ' ἡμῖν ἐστι· τίς ἡμῶν κύριός ἐστιν; ἀπὸ ταλαιπωρίας τῶν πτωχῶν καὶ τοῦ στεναγμοῦ τῶν πενήτων νῦν ἀναστήσομαι, λέγει κύριος· θήσομαι ἐν σωτηρίῳ,
4.6.33.3 παρρησιάσομαι ἐν αὐτῷ. ταπεινοφρονούντων γάρ ἐστιν ὁ Χρι
4.6.33.4 στός, οὐκ ἐπαιρομένων ἐπὶ τὸ ποίμνιον αὐτοῦ. μὴ θησαυρίζετε τοίνυν ὑμῖν θησαυροὺς ἐπὶ τῆς γῆς, ὅπου σὴς καὶ βρῶσις ἀφανίζει καὶ κλέπται διορύσσουσι καὶ κλέπτουσι, τάχα μὲν τοὺς φιλοκτή μονας ὀνειδίζων λέγει ὁ κύριος, τάχα δὲ καὶ τοὺς ἁπλῶς μερι
(★Matthew 6-19)
4.6.33.5 μνητάς τε καὶ φροντιστάς, ἤδη δὲ καὶ τοὺς φιλοσωμάτους· ἔρωτες γὰρ καὶ νόσοι καὶ οἱ φαῦλοι διαλογισμοὶ διορύσσουσι τὸν λογισμὸν καὶ τὸν ὅλον ἄνθρωπον, ὁ δὲ τῷ ὄντι θησαυρὸς ἡμῶν ἔνθα ἡ συγ
4.6.33.1 彼らは彼の契約において立たせられた。それゆえ、「偽りの唇は沈黙せよ。正しい者に対して不法を語る唇よ。」また、「主が滅ぼすであろうすべての偽りの唇と大言壮語する舌を。」彼らは言った。「私たちの舌は偉大だ。唇は私たちに属する。誰が私たちを主とするのか?」
4.6.33.2 貧しい者たちの苦しみと貧困者たちの嘆きのゆえに、今や私は立ち上がる、と主は言う。私は救いの中に置くであろう。
4.6.33.3 そして、私はそれの中で大胆に語る(παρρησιάσομαι)。キリストは謙遜な者たちのものであり、羊群に対して高ぶらない者たちのものである。
4.6.33.4 地上に宝を蓄えることはやめよ。それは虫と腐食が滅ぼし、盗人が掘り出して盗むところである。 主がこう述べたのは、おそらく財産を愛する者たちを非難するためであり、また単に心配する者や思慮深い者たち、さらには身体を愛する者たちをも非難するためである。恋愛、病、邪悪な思考が理性を掘り崩し、人間全体を掘り崩す。(★マタイ 6-19)
4.6.33.5 私たちの真の宝は、連帯があるところにある。
謙遜であることで、神に対して心を開き、恐れなく語る自由を得ることが可能になると理解できる。羊たちに対して高ぶらないとはフーコー的には司牧権力の長上側の態度であることがわかりますのでパレーシアは古典ギリシアの身分が低いものから高いものへの言論の自由であったのがすでに逆転しています。フーコーはパレーシアはキリスト教時代には教師から生徒に話すことだったと講義録のどこかで話しています。見つけたら後ほど書き足しておきます。
33.4はマタイが引用されている。ちょっと寄り道してみておきましょう。
Matthew 6-19
Μὴ θησαυρίζετε ὑμῖν θησαυροὺς ἐπὶ τῆς γῆς, ὅπου σὴς καὶ βρῶσις ἀφανίζει, καὶ ὅπου κλέπται διορύσσουσιν καὶ κλέπτουσιν:
「あなたがたのために地上に財宝を蓄えてはならない。そこでは虫(σὴς)と腐敗(βρῶσις)がそれを消し去り(ἀφανίζει)、また盗人たち(κλέπται)が穴を掘って(διορύσσουσιν)それを盗む(κλέπτουσιν)からである。」
文章がどのくらい一致してるか気になりましたが、写本からミーニュなどの翻刻時に書き換えも可能でしょうから今はあまり考えないことに。ミーニュの問題点は原写本がわからないこと従って原文からの校訂も不明とのことですので。
フーコーは新約聖書のパレーシアについては講義録で取り上げました。それはこちらにまとめてあります。ギリシア語の確認ありです。
さて次にいきましょう。今回の3つ目です。
pp136
4.16.101.2
τροπὴν ἄλλοις διαλεγόμενος οὐκ ὀκνεῖ λέγειν· ἀναμιμνῄσκεσθε δὲ
4.16.101.2 τὰς πρότερον ἡμέρας, ἐν αἷς φωτισθέντες πολλὴν ἄθλησιν ὑπεμείνατε παθημάτων. τοῦτο μὲν ὀνειδισμοῖς τε καὶ θλίψεσι θεατριζόμενοι, τοῦτο δὲ κοινωνοὶ τῶν οὕτως ἀναστρεφομένων γενηθέντες. καὶ γὰρ τοῖς δεσμοῖς μου συνεπαθήσατε, καὶ τὴν ἁρπαγὴν τῶν ὑπαρχόντων ὑμῶν μετὰ χαρᾶς προσεδέξασθε γινώσκοντες ἔχειν ἑαυτοὺς κρείττονα
4.16.101.3 ὕπαρξιν καὶ μένουσαν. μὴ ἀποβάλητε οὖν τὴν παρρησίαν ὑμῶν, ἥτις ἔχει μεγάλην μισθαποδοσίαν. ὑπομονῆς γὰρ ἔχετε χρείαν, ἵνα τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ ποιήσαντες κομίσησθε τὴν ἐπαγγελίαν· ἔτι γὰρ μικρὸν ὅσον ὅσον, ὁ ἐρχόμενος ἥξει καὶ οὐ χρονιεῖ. ὁ δὲ δίκαιός μου ἐκ πίστεως ζήσεται. καὶ ἐὰν ὑποστείληται, οὐκ εὐδοκεῖ ἡ ψυχή μου ἐν αὐτῷ. ἡμεῖς δὲ οὔκ ἐσμεν ὑποστολῆς εἰς ἀπώλειαν, ἀλλὰ πίστεως
4.16.101.2 他者と対話する中で、ためらうことなくこう語ります。「過去の日々を思い出しなさい。光を受けたその日々において、あなたがたは多くの苦しみを伴う試練に耐えました。その一方では、侮辱や迫害を受け、見世物にされました。もう一方では、そのように扱われた人々の仲間となりました。あなたがたは私の鎖に共に苦しみ、また自分の所有物を奪われることを喜びをもって受け入れました。それは、より優れた、永続する財産を自分たちが持っていることを知っていたからです。
4.16.101.3 ですから、あなたがたの**パレーシア(παρρησία)**を捨ててはなりません。それは大きな報酬をもたらすものです。忍耐が必要です。それは、神の御心を行った後に約束されたものを受け取るためです。あとほんの少しで、来るべき方が来られ、遅れることはありません。義なる者は信仰によって生きるのです。そして、もし退くなら、私の魂は彼を喜ばないでしょう。しかし、私たちは退く者ではなく、信仰により救いに至る者です。」
ChatGPTによる解説:「パレーシア(παρρησία)」の重要性
1. 文脈における意味 パレーシア(παρρησία)は、「大胆さ」や「自信をもって語ること」を意味し、この箇所では信仰における確信や、神の約束に基づく確固たる態度を指します。ここでパレーシアを捨てないよう勧める理由は、それが「大きな報酬をもたらす」からです。この「報酬」は神の約束、すなわち救いと結びついています。
2. 神学的な視点 パレーシアは単なる態度や行動ではなく、神に対する信仰とその信仰に基づく実践の現れです。忍耐を持つことで神の意志を果たし、約束を得ることが強調されています。
3. 倫理的・実践的側面 過去の苦難を思い出すことを通じて、パレーシアを維持する重要性が説かれています。苦しみの中でも喜びを持ち、他者と連帯し、未来の希望に目を向けることが、パレーシアを保つ方法として示唆されています。
この箇所は、信仰の実践における忍耐と希望、そして大胆さを持つことの必要性を説く重要なテキストです。
信仰の確信とセットですので新約聖書のパレーシアと同義であると言えるでしょう。
ひとまず淡々と進めていきましょう。