「論語」と「自己への配慮」1

 ギリシア哲学などの古代の思索をミシェル・フーコーに導かれ読んでいる(*)と、ギリシアの思索には我々がよく知っている実践が随所に現れ、西洋の倫理の実践のコアが私たちにとっても特殊でないことに気がつく。
(*)「性の歴史」2・3巻
 フーコーによればそれらのコアはキリスト教により屈折したり弱まったり強まったり、復活したりしてしている(**)。
(**)フーコー講義録 自己と他者の統治
 それらのサマリーを作ることは多く書籍化されている。ここでは、われわれとの関係を探りたいが、まだ結論みたいなことは思いつかないのでひとまず表現などのこまかな積み上げから始めてみたい。

 まず、「論語」における「自己への配慮」を取り上げるが、本題に入る前にネガティブなことから始めたい。論語が教育勅語にも引用され、極めて保守的、年長者にとって有利で、若い人から見ると抑圧される正当化の教本に見えるからである。

論語は青空文庫の翻訳を参照する

 まず、論語の学而第一にこのようにある
六(六)
 先師がいわれた。――
「年少者の修養の道は、家庭にあつては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、先ず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。」

 文字どおりよんでよいならば、父母には孝養をつくすが、従順である必要はないようである。一方、長上には従順であるが,孝養は不要である。
 私たちが親だったり長上であればこれほど権威がある文章は気持ちがいい「ならぬものはならぬ」
 だが私たちが若かったり常日頃反感を持っていたらどう切り崩すのだろう?
里仁第四 によると
一八(八四)
先師がいわれた。
「父母に仕えて、その悪を默過するのは子の道ではない。言葉を和らげてそれを諌めるがいい。もし父母がきかなかったら、一層敬愛の誠をつくして、根気よく諌めることだ。苦しいこともあるだろうが、決して親を怨んではならない。」

ということが大事なそうである。どこまでも親側有利に見える。長上についてはどうだろうか?

学而第一 二(二)
 有先生がいわれた。――
「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめつたにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか。」

とあり今日的な長上がパワハラセクハラするような人物とそれに対する内部告発は想定されていない。実際は長上になればやりたい放題で、司馬遷の史記に出てくるような暴虐な君子像が目にうかぶ。だからこそ君子には徳や礼をすすめていたのだろう、と考える。
 したがって論語は目下の人間から見たら居心地の悪い超家父長制の考え方と切り捨てて読みたいものではないのかもしれない。一言で言えばアホらしい文献である。
 そういうことを心に留めて、心をどう育てるか論語にどう書いてあるかを次回以降のぞいてみたい。そして最終的には、論語を活用して我々の心を抑圧したのは誰か、そして実際そう言えるのか、も含めて情報を集めていこう。


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