蛾の運命

 今朝いつものように駅のホームへの階段を上ると、その途中、布きれのようなものが落ちていて、危うく踏みそうになった。布きれは怯えたようにちょっと動いた。風もない階段で、一人でに動くなんておかしいから、近づいて見てみると、それは大きめの、青白い蛾だった。私はかつて小さい緑地の隣に住んでいて、都会に比べてほどほどに豊かな自然環境から、そこの近くではたぬきやウズラを見かけたことだってあるのだが、その時見たほど大きい蛾にはこれまで遭遇したことがなかった。人間は思っている標準の大きさを超えるものを見ると、ぞくぞくするもので、今まで名前のわからない茶色い小さい蛾しか見たことない私はそのぞくぞくに触れた。
 蛾を見つけたときには乗る予定の電車は既にホームに侵入しており、観察はあいにく短時間で終わった。見た目の記憶を辿って電車の中で調べると、おそらくだが、オオミズアオという種類の蛾だと判断できた。大きい蛾の中ではポピュラーだそうだ。それまで未知だった物事でも、名前を知ると安心するものである。それで、他のことを考える余裕が出てきた束の間、蛾の生死が気になって仕方なくなった。というのも、あの蛾は階段のいかにも踏まれそうな位置でじっとしていたのである。私の乗った電車からは通勤客が大勢出ていった。総合して、蛾の運命は全て踏まれて死ぬことに収束しているように思われた。
 先ほどのぞくぞくの正体の一部を、私は知っている。基準より大きいものを見ると、「知性」めいたものを感じるから恐ろしいのだ。成人と同じくらいの大きさのコウモリの写真を見た時も、ダイオウイカを見た時も、同じくぞくぞくするように思うが、「これだけ大きいとひょっとすると知性があるんじゃないか、侵略されるんじゃないか」という感情がその裏にある。私はそのいかにも「知性」のありそうな生き物の命が失われてしまうことに寂しさを覚えた。同時に、後悔もした。あの状況で、あの蛾を救い得たのは私を除いて他にいなかったからである。あの駅のホームという小さい世界において、蛾の素性を知るものは私一人であり、あの蛾について何も知らない人が、何の感情もなくーー「事故」としてーーあの蛾を殺めてしまうことに私の心は痛んだ。ならば私があの蛾を殺めて、「事件」としたほうが幾分ましだとすら思った。だが、私がどんなに蛾を思ったところで、もう既に車窓風景は目で追えないほどの速度で後ろへ去っていく。大きめの蛾に初めて遭遇した記憶は、やや苦いものとなった。

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