目に見えない精神の回復について
計画していたことではあるが、今年のお盆は大したことをしていない。お盆の翌週に有給を一日だけとって、旅行に行くことにしたので、去るお盆には遠出をしなかったのである。日曜日の昨晩、お盆に何も為さなかったという確かな実感が、私を苦しめた。苦しみながら、同時に、何かを為したという実感は得たことがないのに、為さなかったという実感は切実なリアリティをもって私へ迫ってくることの面白さを思った。昨晩はそんな考え事をしながら、ゲームという手軽な現実逃避の末二時間夜更かしをして眠った。
翌朝は存外にすっきりと起きられた。最近はやや涼しくなってきた感がある。少し前までは早朝にもかかわらず暑さに起こされ、エアコンをつけて二度寝に入るのが例だったのだが。仕事に向かえばかつてとなんら変わらない日常があった。それどころか、前日に憂鬱に思っていた仕事がすんなり進んだのには驚いた。お盆に入る前の私は、何をしていても頭が重たいというか、思考の流れが淀んでいるような感があった。仕事をしながら、「まさに『打ちのめされる』感じだ。英語の"overwhelmed"ってこういうことなんだろうか」などの思考が去来し、淀みは加速するばかりだった。
退勤後も頭はすっきりしていた。ここで、目に見えないが、長い休みのおかげで精神は確かに回復しているらしい、ということに気づいた。休暇に何も為さぬことの辛さはなんとも耐え難いものであるが、何も為さないことによって得られるものもあったのだ。落ち着いて考えれば当たり前のことを大仰に言っているだけにすぎないのかもしれないが、私はちょっとした真理に触れた思いがした。般若心経だったか、「無いものが有る」との考えはこういうことなのかもしれないと思った。空になったコップを見て、コップに水は入っていないと思うのではなくて、飲み干された水が有ると思う、という話があった気がする。この話は水がないという現実を無理矢理ポジティブに解釈しているにすぎないと思っていたが、コップを空にしたという価値があるのかもしれないと思えた。
文章を書くといつも小難しい話になる。でもこうしてちょっとした学びを積み重ねて生きていくのが好きだ。もう家に着くので終わりとする。
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