「宮沢賢治の宇宙」(47) 「天気輪の柱」を探して盛岡へ
「天気輪の柱」を探して
『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」。これはいったい何か? これまで、note「宮沢賢治の宇宙」でこの謎を話題にしてきた。
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第46話でお話ししたように、賢治ゆかりの土地を散策してみることにした。花巻の身照寺で賢治のお墓参りを済ませたので(第46話)、この後は花巻と盛岡で調べたことを報告したい。今回は盛岡編だ。
賢治が下宿したお寺
賢治は盛岡のお寺に下宿したことがあった。お寺に下宿というのは、何だか変だが、昔はそれほど奇異ではなかったのかもしれない。
[1] 1913年(大正2年):賢治は17歳
この年の3月、盛岡中学校の寮の舎監排斥運動をしたことで退寮を求められ、盛岡市北山の清養院(曹洞宗)に下宿。5月には同じ北山エリアにある徳玄寺(浄土真宗)に下宿を移す(『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修 監修。河出書房新社、1989年、34-35頁)。
[2] 1915年(大正4年):賢治は19歳
この年の1月、盛岡市北山の教浄寺(時宗)に下宿。受験勉強に打ち込み、無事、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第二部に首席で入学。寄宿舎自啓寮に入る(『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修 監修。河出書房新社、1989年、42-44頁)。
賢治は多感な時期にお寺にいたことがあるのだ。お寺で見たものや感じたことは賢治の記憶に残っただろう。
盛岡市北山の清養院
賢治が下宿したお寺の中で注目していたのは清養院だ(図1)。なぜなら、このお寺には「お天気柱」と呼ばれていた「後生塔」があるからだ。
清養院には盛岡駅からタクシーで行った。タクシーは清養院の境内の中に入ってくれた。降りて境内の中をいろいろ眺めてみた。ところが肝心の後生塔が見つからない。ひょっとして、正門の方かと思い、境内を出て正門を正面から眺めてみた。すると、ようやく「後生塔」が見つかった(図2)。
「後生塔」は天気輪の柱なのか?
清養院の「後生塔」を見つけたときの私の第一印象は「えっ? こんな小さいの?」だった(図3、図4)。
これが丘の上にあったら見分けられるだろうか? また、とてもブルカニロ博士を隠せるほど大きくはない。
私の第一印象はさておき、この「後生塔」は、昔、子供たちがお天気占いや遊びに使い、「お天気柱」と呼ばれていたという。この「お天気柱」には鉄の輪があるので、「天気輪」という名称を思いついた可能性はある。ただ、「天気輪」という名称そのものはなかったようだ。
願いを叶えるために回す鉄の輪がついている構造には感銘を受けた。なぜなら、「天気輪」=「天気」+「輪」と解釈するのが自然だからだ。「天気輪」=「天」+「気輪(きりん)」として、星座の「きりん座」を「天気輪」の候補とする解釈もあるが、やはり不自然に思える。
清養院の「後生塔」については萩原昌好による詳しい解説があるので参照されたい(図5);「天気輪の柱―小沢俊郎氏の説を承けて」萩原昌好『宮沢賢治』1 創刊号、洋々社、1981年、59-71頁。
盛岡市北山の教浄寺
清養院をあとにして、今度は教浄寺に行ってみた(図6)。こちらには清養院にあった「後生塔」のような塔はない。静かな境内だ。
タクシーの運転手さんに言われた。
「お客さん、観光ですか?」
「はい。」
「観光のお客さんを、このお寺に連れてきたのは初めてです。」
門から少し下がって見ると、大きな二本の木(コウヤマキ?)が聳え立っている(図7)。それを眺めていたら、『銀河鉄道の夜』の最後の場面が思い出された。
盛岡市の北山地区にはたくさんのお寺が集まっている。賢治の足跡とは無関係に散歩を楽しむことができる場所だ。途中で山田線の線路を渡るが、それも一興である(図8)。乗り込んだ列車は、銀河鉄道かもしれない。
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