
ゴッホの見た星空(42) 星空が描かれたゴッホの絵の日本語タイトル
《星月夜》ではなく《星の輝く夜》
小林秀雄(文芸評論家、1902-1983)は『ゴッホ』(人文書院、1953年)の中で、《星月夜》の絵を別な名前で紹介していることを前回のnoteで述べた。
その名前は《星の輝く夜》。原タイトルの《The Starry Night》の直訳だ。
星月夜に月は要らない
《星月夜》の絵には「月」が描かれており、星月夜ではない。星月夜は、月がないにもかかわらず、星々の輝きだけで、月夜のように明るい夜のことを意味するからだ。
確認のため、『広辞苑』(第7版、岩波書店、2018年)見てみると、次の説明がある。
星月夜(ほしづきよ) 暗夜に、星の光が月のように明るく見える夜。星夜。ほしづくよ。
この説明に「星夜(せいや)」という言葉が出てくるが、『広辞苑』には次のように説明されている。
星夜 星の光が明らかな夜。ほしづきよ。
星々が輝いている夜のことだ。
星が描かれたゴッホの絵の原タイトルを調べてみた
ゴッホが描いたのは、星月夜ではなく、星夜である。しかし、絵のタイトルとしては《星月夜》が定着している。ただ、誰もそのことを意に介していないようだ。実際のところ、私も《星月夜》のタイトルを自然に受け入れていた。私は絵画に詳しい人間ではないので、特に絵のタイトルを気にしていなかったと言うべきか。
とはいえ、星月夜の光景ではないのに、《星月夜》というタイトルになっているのは、やや気になる。そこで、星空を描いたゴッホの絵の原タイトルを調べてみることにした。《星月夜》のほかに、《夜のカフェテラス》、《糸杉と星の見える道》の三作品だ(表1)。

その結果、《夜のカフェテラス》と《糸杉と星の見える道》は原タイトルどおりの日本語名になっていることが分かった。しかし、《糸杉と星の見える道》は原タイトルどおりとは言え、問題はある。それは、この絵には星(恒星)は描かれていないからだ。描かれた天体は月(地球の衛星)と惑星(金星と水星)のみで、星はない。そのため、小林案の「糸杉のある道」の方が無難である。「糸杉と暮れなずむ道」などもありうる。
さて、原タイトルの比較という意味では、《星月夜》だけが不正確であることがわかる。この絵に関しては小林秀雄の《星の輝く夜》の方が正確である。
星月夜という言葉は誤解されやすい。「月」が入っているので、星だけでなく、月も光っていると思いがちだ。私もしばらくは、そうだと思っていた。
また、星月夜という言葉の響きは心地よい。ゴッホの絵に星月夜というタイトルを付けた気持ちはわかる。
究極の星月夜を見た人
月が無いのに星々の光だけで明るい夜空。究極とも言える星月夜を見た人がいる。歌手の小椋佳である。
アフガニスタンのバーミヤンで小椋が眺めた夜空を紹介しよう。文章のタイトルは「星しかない空」だ。
夜中になぜか目が覚めて、外に出た僕は驚愕しました。
夜なのに外が明るい。
見上げると、夜空の黒い部分がまったくない。
きらめく星で。ぎっしり埋め尽くされているんです。
星しかない空なんて。人生で初めて見ました。(『もういいかい まあだだよ』小椋佳、2021年、双葉社、150-163頁)
いやあ、これは凄い!
私もハワイ島のマウナケア天文台(標高4200メートル)で何回も星月夜を見ている。私が探していたのは130億光年も離れたところにある、生まれたての銀河だ。非常に暗い銀河なので、観測はいつも新月に近い時期に行われた。月光の影響を避けるためだ。
マウナケアの山頂は空気も薄く(酸素の量は平地での量の60パーセントしかない)、星々の輝きは美しい。生まれたての銀河探査にはもってこいの場所なのだ。しかし、眼下にはコナの町あかりが少し見える。小椋がアフガニスタンのバーミヤンで眺めた夜空には負けたかもしれない。
ただ、ゴッホの眺めた夜空には勝てないかもしれない。なにしろ、ゴッホが絵を描いていたのは1880年代のことだ。真夜中には星々の光しかなかっただろう。
ゴッホはどんな星空を眺めていたのだろう。タイムスリップできるのなら、してみたい。