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天文学者のひとり言(19) ライプニッツの言葉「何故無ではなくむしろ或るものが有るのか」を考えてみる

『折々の言葉』に出ていたライプニッツの言葉

1月24日、新聞を読み始めたら面白い言葉に出会った。

「何故無ではなくむしろ或るものが有るのか」

哲学者の鷲田清一さんが執筆している『折々の言葉』に出ていた言葉だ(朝日新聞の一面)。

図1 2025年1月24日、朝日新聞の「折々の言葉」で紹介されたライプニッツの言葉とその説明。

事物にはそれが現に「そのようであって他のようではない」理由があり、そうした「十分な理由」なしには何ものも生じないと近世ドイツの哲学者は説いた。

これが「折々の言葉」に出ていたライプニッツ(1646-1716)の言葉に関する説明だ。

この宇宙は無から生まれた?

現在の宇宙論では、「この宇宙は無から生まれた」とする説が受け入れられている。では、「無」から、「或るものとしての宇宙」が生まれたのだろうか?

実は、そうではない。物理学的な「無」は、私たちが「無」という言葉から受ける印象とは異なる「無」なのだ。なんだか、禅問答のようだが、次のように考えればよい。

もし、「無」があるとすれば、そのエネルギーはゼロである。ところが、この宇宙のありとあらゆるものは「ゆらぎ」を持っている。特に、ミクロの世界を扱う量子論では、この「揺らいでいる状態」は本質的に重要なことと考えられている。位置も速度もエネルギーも、そして時間ですら揺らいでいるのだ。

物理学的な「無」は揺らいでいるので、エネルギーを持った(仮想的な)粒子を生み出すことがある。例えば、プラス 1 のエネルギーを持った粒子が生まれるとき、マイナス 1 のエネルギーを持った粒子(反粒子)も生み出せばよい。そうすると、二つの粒子のエネルギーは足し合わせればゼロなので、辻褄はあっている。

こうして、有限なエネルギーの値を持った粒子が、宇宙の種になると考えるのだ。まあ、これが十分な理由になっているかどうかは今のところわからない。なぜなら、これは一つの説であり、宇宙誕生のメカニズムがきちんと解明されているわけではないからだ [その解明にはミクロの世界を扱う重力理論(量子重力理論)が必要になるが、まだ構築されていない]。

なぜ「或るものが有るのか?」

ここで、今一度ライプニッツの疑問に立ち返ろう。「なぜ或るものが有るのか?」という問いかけだ。

この問いに対するひとつの答えを紹介しよう。それは「無いものは無い」ということだ。

「無」は数学の言葉で表すと「ゼロ」だ。この宇宙にゼロはあるのだろうか?

以前のnoteで物理学者・中谷宇吉郎の次の言葉を紹介した。

「数学でいう線には幅がないが、物理で使う線には必ず幅がある」(『中谷宇吉郎随筆集』樋口敬二 編、岩波文庫、1988年、「地球の丸い話」316頁)。

この言葉は「概念としての数であるゼロは存在するが、測定値としてのゼロはない」ことを意味する。

つまり、数学ではゼロは概念として、あるいは数字として使われているが、現実の世界にはゼロはないということだ。例えば、「点」。仮に点が立体だとすると、体積はゼロである。球だとすれば、半径=0。体積がゼロなので、そこに物質は存在できない。したがって、質量もゼロになる。

高校時代、物体の運動を考えるとき、質点を導入して考えた。質量は有限の値m(≠0)を持つが、体積はゼロとするのだ。これだと、ニュートンの運動方程式は簡単に解けて、物体がどのように運動していくがかがわかる。体積がゼロなので、空気抵抗力による減速を考える必要もない。質点は便利な概念であった。しかし、この世に質点は存在しない。

質量がm(≠0)で、体積はゼロの物体は、密度が無限大になる(密度=質量/体積なのでゼロで割り算することになるが、ゼロで割り算することは数学では禁じられている)。

物理量としてのゼロはない

結局、現実の宇宙では中谷宇吉郎が言うように、「物理量としてのゼロはない」と考えてよい。ただし物理の問題を解くときに、数学の助けを借りることになるが、そこではもちろんゼロも無限大も使ってよい。

若い頃、数学のおかげで問題が解けるので、てっきりゼロも無限大も物理量としてあると考えていた。そこに、落とし穴があったのだ。

宇宙はたしかに数字が好きなようだ。しかし、ゼロを身にまとうことはない。ゼロは何もない。つまり、透明だからだ。そして、無限も身にまとわない。あまりにも大きすぎて、自分が見えなくなるからだ。

神は数学者か?

『神は数学者か 数学の不可思議な歴史』(マリオ・リヴィオ 著、千葉敏生 訳、《数理を愉しむシリーズ》早川書房、2017年、361頁)を読んでいたら面白い文章に出会った。この本の解説を担当された小島寛之(数学エッセイスト)がアメリカの数学者の友人から聞いたジョークとのことである。

生物学者は、自分たちを化学者だと考えている。化学者は、自分たちを物理学者だと考えている。物理学者は、自分たちを神だと考えている。でも、神は数学者である。

非常にウイットに富む文章だ。これに加えて、個人的には次の文章を捧げたい。

神は数学者かも知れない。しかし、ゼロと無限は嫌いである。ついでながら、神は永遠も嫌いだろう。

結局、ライプニッツの言うように、この宇宙には「或るものは有る」と言うことなのだ。そして、「無いものは無い」

宇宙は、わかりやすくできているのだ。

たまには、ゼロや無限大のことを考えてみるのも楽しいものだ。その際。光文社新書『宇宙・0・無限大』(谷口義明、光文社、2023年)が役に立つだろう(図2)。

図2 光文社新書『宇宙・0・無限大』(谷口義明、光文社、2023年)の表紙。『神は数学者か 数学の不可思議な歴史』はこの本の「おわりに」(183-185頁)で紹介されている。

追記:ちなみに「瞬間」もない。