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『銀河系』のお話し (5)『銀河鉄道の夜』への道

「銀河のお話し」の続編です。
カバーの全天写真は「2ミクロン・オール・スカイ・サーベイ」の成果です。https://www.ipac.caltech.edu/2mass/gallery/images_misc.html

「銀河のお話し」の状況設定と同じです。

銀河鉄道というアイデアはいつ生まれたのか?

「昨日の話は面白かったね。」
天文部の部室に入ってきた輝明が、昨日の話に触れた。
優子がうなずく。
「はい、ちょっと意外でした。

花巻農学校の生徒が「天の河ステーション」という言葉を思いついた。賢治はそれを気に入った。こういうことだったんですね。ぜんぜん知りませんでした。」
「岩手山の山頂で眺める夜空はとてつもなく美しかったんだろうな。空気は澄んでいる。邪魔な街灯りもない。星たちのパラダイスだ。」

「神保町はいい町ですが、さすがに星空は・・・。」
「月と惑星ぐらいかな。よく見えるのは。」
「一応、夏の大三角とか冬のオリオンぐらいはわかります。」
「この天文部でも観測旅行に出かけることを考えてみたいもんだ。」
「あっ! それぜひお願いします!」
双眼鏡や小さな望遠鏡を持って、町を出る。そういえば、「書を捨てよ 町へ出よう」と言った人がいた。作家の寺山修司だ(1935-1983)。1967年に出た評論のタイトルだ。天文部員なら「灯りを捨てよ 町から出よう」になってしまうのだが。
北海道に行けるのなら、オホーツクの浜辺に寝転がって澄んだ夜空を眺めてみたい・・・。そんなことを考えていたら、優子から質問が来た。

「部長、賢治はどうして『銀河鉄道の夜』というタイトルを思いついたんでしょうか?」
「おお、そうだった。昨日はあれからその問題についていろいろ調べてみた。『銀河鉄道の夜』は超有名な作品だから、議論百出(ひゃくしゅつ)という感じだ。『銀河鉄道の夜』に特化した単行本もたくさんある。」
「あっ! じゃあ、あのあと古書店巡りもしたんですか?」
「うん、大変だった。」
「いっぱい買ったんですか?」
「お財布と相談して、十冊ぐらいにしておいた。」
「わあ、十冊でも大変でしたね。」

『銀河鉄道の夜』の謎

にわか勉強だが、輝明は『銀河鉄道の夜』に関する本をまとめ読みすることができて、だいぶ知識を得ることができた。とはいえ、まだまとめきれていないので、とりあえずチェックできたことだけを話すことにした。

「調べてみてわかったんだけど、『銀河鉄道の夜』にはたくさんの謎がある。たとえば、主人公のジョバンニは宮沢賢治自身でいいだろう。では、『銀河鉄道の夜』で重要な役割を担うカムパネルラは誰だろう?」
「誰かモデルがいるんですか?」
「うん、少なくとも三人いる。」
「えっ? 三人も?」

「最右翼は最愛の妹のトシだ。1922年11月27日に亡くなっている。次の候補は盛岡高等農林学校時代の親友、保阪嘉内だ。その後、二人はやるせない別れをした。三人目の候補は盛岡中学校時代の親友、藤原健次郎だ。彼は16歳でこの世を去った。」

「この三人の中から選ぶのは大変そうですね。」
「うん、大変だ。実際、いろいろ議論があるようだ。それから『銀河鉄道の夜』には意味不明の言葉もある。」
「それは?」
「第五節のタイトルにもなっている「天気輪の柱」だ。ジョバンニが銀河ステーションから銀河鉄道に乗る前、町外れの丘に登ったんだけど、そこにあった柱だ。一切説明がないので、謎の柱ということになっている。それから、意味不明と言えば、天の川に住んでいると思われる「鳥捕り」という人。鳥を捕って商売しているらしいけど・・・。

実のところ、『銀河鉄道の夜』は謎だらけの童話みたいだ。」
「今度、じっくり読み直してみます。子供の頃、ちょっと読んだだけなので。」
「じゃあ、優子が読み終わったら、感想合戦でもしようか。」
「はい、そうして下さい。読むのに、気合が入ります。」

「今日はとりあえず、賢治がいつ頃「銀河鉄道」という言葉を思いついたか考えてみよう。「銀河鉄道」という言葉に関連する賢治の作品を調べてみたので、紹介しよう。」
輝明はパソコンを立ち上げて、スライドを映し出した(表1)。

文献 1.『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修 編、河出書房新社、1989年の96頁には「冬と銀河鉄道」とされているが、「冬と銀河ステーション」が正しい。「冬と銀河ステーション」は96頁、「銀河鉄道の一月」は148頁に出ている。2. 第十巻、校異篇、73頁。 3. 第三巻、本文篇、227頁。 4. 第三巻、校異篇、606頁。 5. 第三巻、本文篇、251頁。 6. 第六巻、本文篇、237頁。 7. 第二巻、本文篇、219頁。なお、巻数は『【新】校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房)の巻数である。

「八つもあるんですね。」

「そうなんだ。銀河ステーションをとりあえずおいておくと、「岩手軽便鉄道の一月」という詩に出くわす。1926年1月27日に書かれた詩だ(『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、『春と修羅』第二集、251頁)。この下書稿に“銀河鉄道”という言葉が出てくる(『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、校異篇、606頁)。つまり、「岩手軽便鉄道の一月」は、本来は「銀河鉄道」というタイトルだった。生前に発表された原稿のタイトルは「銀河鉄道の一月」だ(『【新】校本 宮澤賢治全集』第六巻、252頁)。これが書かれたのは1926年1月17日のことだ。どうも、これが「銀河鉄道」という言葉が出てきた最初になるようだ。ただ、わずか13行の短い詩で、不思議なことに、詩の中には銀河鉄道という言葉は出てこないんだけどね。」

「今こんなものを書いている」 「どんなのだス」  「銀河旅行ス」

「「銀河鉄道」という言葉は1926年に初めて出てきますが、童話の構想はいつ頃から準備したんでしょうか?」
「1924年に練られ始めたようだ。そのことは、賢治が友人に語った言葉でも裏付けられている。大正十三(1924)年、『注文の多い料理店』が出版されたとき、それを祝う会の席上でなされた菊池武雄と賢治の会話が残っている。菊池は『注文の多い料理店』の装幀と挿画を担当した人だ。

「今こんなものを書いている」
「どんなのだス」
「銀河旅行ス」
「ワア、銀河旅行すか、おもしろそうだナ」
「場所は南欧あたりにしてナス。だから子供の名などもカンパネラという風にしあした」 
(『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む』西田良子 編著、創元社、今野勉 著、新潮社、2003年、16頁)

このときにはまだ、この童話のタイトルは決まっていなかったようだ。しかし、菊池との会話に“カムパネラ”という名前が出てきている。この段階で、カムパネルラの登場はイメージされていたんだろうね。」

そして、『銀河鉄道の夜』へ

「一旦、まとめてみよう。」
「はい、お願いします。
「天の河ステーションという言葉は1922年の岩手山登山で生まれた。そして、この言葉は1923年には銀河ステーションに生まれ変わった。しかし、“銀河鉄道”という言葉になるには、1926年まで待たなければならかったと考えていい。」
「これだけのステップで、もう四年ですね。」
「童話の作品名は銀河鉄道だけじゃない。“の夜”がついて『銀河鉄道の夜』だ。」
「このタイトルがいつ生まれたかですね。」

「昨日、古書店でいい本を見つけた。吉江久彌の『賢治童話の気圏』(大修館書店、2002年)だ。この本に次の解説があった(170頁)。

・・・作品題名の『銀河鉄道の夜』は第四次稿において初めて明記されたものであるが、第三次稿にも第四次稿にも章題としての「銀河ステーション」がある。・・・

つまり、だいぶあとになってタイトルが決まったということだね。」

「この文章に出てくる第三次稿とか、第四次稿はなんですか?」
「おっと、ごめん。まだ説明していなかったね。次のスライドにまとめてある(表2)。」

『銀河鉄道の夜』の原稿は三つの初期形と最終形、合計四つの原稿に分類されている。

「1924年というと、妹のトシが亡くなった二年後ですね。」
「うん、賢治は1923年にサガレンに旅行している。サガレンはサハリン、樺太のことだ。この旅行はトシへの鎮魂を捧げる旅だったようだ。東北本線、北海道の列車、そして樺太庁鉄道の列車に揺られながら、童話の構想を練っていたのかもしれないね。」
「傷心の旅路だったんですね。なんだか、胸が痛みます。」

「賢治は『銀河鉄道の夜』を、晩年まで手入れしていたらしい。その意味では、『銀河鉄道の夜』は未完成の童話だ。しかし、『農民芸術概論綱要』に賢治の遺した有名な言葉がある。

“永久の未完成これ完成である” (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇、16頁、筑摩書房)

この言葉に従えば、最終形(第四次稿)を完成原稿として読むしかない。ただ、賢治の死後、編集されたものであることは覚えておいた方がいい。」

The Great Milky Way Rail Road

“永久の未完成これ完成である” この言葉は凄すぎます。まるで、賢治は哲学者のようです。」
「まったくだ。この言葉を最初に目にしたときは、頭がクラッとしたことを覚えている。こんな言葉を遺せる人はそういない。」
「ホントにそう思います。」

「『銀河鉄道の夜』が完成しつつあったのは、1931年頃という話をした。ところが、ちょっと気になるメモがある。」
「どんなメモですか?」
「そのメモは賢治の「兄妹像手帳」に遺されているものだ(図1)。

図1 宮沢賢治の兄妹像手帳にある銀河鉄道の夜に関連するメモ (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻、(上)本文篇、405頁、筑摩書房)

「“The Great Milky Way Rail Road” 日本語にすると、“偉大なる天の川鉄道”ですね。」
「明らかに『銀河鉄道の夜』のことを指していると思う。日付は1931年9月6日。賢治の亡くなる二年前のことで、最終形(第四次稿)を仕上げていた頃になる。」

「あれっ? このメモには「Night、夜」」がないですね。」
「そうなんだ。賢治はこのメモのあと、最終形の第四次稿を書き始め、『銀河鉄道の夜』というタイトルにしたんじゃないだろうか。さっき紹介した吉江さんの考察は正しいと思う。」
「ずいぶん悩んだんですね。」
「結局、タイトルが決まったのは1931年の秋から冬の頃。こうして賢治は10年弱の時間を要して『銀河鉄道の夜』に行き着いたことになる。原点は1922年の岩手山登山。賢治の心の銀河ステーションは岩手山の山頂にあったのだろうね。」

花巻農学校の生徒たち。彼らを見つめる優しい賢治の目。そして、名作『銀河鉄道の夜』の誕生。
「なんだか、素敵な物語です。」

ふと見ると、優子の目は潤んでいた。

<<<これまでのお話し>>>

『銀河系』のお話し(1) 僕たちの住んでいる銀河は,なぜ『銀河系』と呼ばれるのか?
https://note.com/astro_dialog/n/n45824f0b6272

『銀河系』のお話し(2) 宮沢賢治は,なぜ『銀河系』という言葉を知っていたのか?
https://note.com/astro_dialog/n/nfcea0e50e032

『銀河系』のお話し(3) 『銀河系』という言葉はいつから使われていたのか?https://note.com/astro_dialog/n/ne316644c6000

『銀河系』のお話し(4) 『銀河系鉄道の夜』はないが、『天の河鉄道の夜』はあり得た?
https://note.com/astro_dialog/n/n7bf892c43a0c

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