「宮沢賢治の宇宙」(48) 「天気輪の柱」を探して花巻へ
「天気輪の柱」を探して
「天気輪の柱」を探して
『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」。これはいったい何か? これまで、note「宮沢賢治の宇宙」でこの謎を話題にしてきた。
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「宮沢賢治の宇宙」(46)「天気輪の柱」を探して
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前回(第47話)は盛岡編だった。「天気輪の柱」の候補を満たす条件を厳密に取り入れると、実は盛岡は除外される。それは「町外れの丘の上にある」という条件があるからだ。ここでいう「町外れ」の町は「花巻」が最有力候補のためだ。
もちろん、賢治の心象スケッチに捉えられた光景が盛岡にあったのかもしれない。そのため、守備範囲を広く取っておく方が安全ではある。中学・高校時代を過ごした盛岡には思い出がたくさんあるだろう。そのため、盛岡を訪れてみた次第だ。
しかし、今回は花巻編だ。また、心を新たにして、「天気輪の柱」の候補を考えてみたい。
胡四王神社
盛岡から新幹線で新花巻駅まではあっという間だ(わずか15分)。新花巻駅は花巻駅からは結構離れているが、宮沢賢治記念館には近い。賢治を訪ねる旅なら新花巻駅は便利な駅だ。
ただ、今回は宮沢賢治記念館はパスだ。今まで何回も来ていることもあったが、時間も限られているのでやむを得ない。
新花巻駅に降り立ったとき、ふと思った。胡四王神社に行ってみよう。胡四王山の標高は183メートル。花巻市の「町外れにある丘」と考えてみよいではないか。そう思ったのである。タクシーの運転手さんに訊いてみると、「丘といえば、胡四王山ぐらいですね。」と同感された。
実際、賢治は何回も胡四王山に登っている。また、臨終を間近に控えて「経埋ムベキ山」(賢治の死後にお経を埋めて欲しい山)のひとつに胡四王山を選んだ(下記の note を参照)。
「宮沢賢治の宇宙」(4)姫神山―賢治、最後の願いhttps://note.com/astro_dialog/n/n5b60243d5910
賢治の恋心を受け止めた神社
胡四王神社の歴史は古い。創建は807年にまで遡る(図1)。
境内は落ち着いた佇まいで、心が落ち着く(図2、図3)。また、眺めもよく、花巻平野が一望できる(図4)。賢治もよくこの神社を訪れ、景色を楽しんだことだろう。
胡四王神社は賢治にとって特別な神社である。なぜなら賢治の恋心を受け止めた神社だからだ。賢治は盛岡中学校を卒業した大正三年(1914年)の四月、鼻炎の治療のために盛岡の岩手病院に入院した。現在の岩手医大の付属病院である。そのとき、看護師の一人に恋心を抱いたのである。結婚をも考えたが家族の反対で実らなかった。そのため、看護師の出身地である紫波群日詰町(現在の紫波町)の方角(北)を胡四王山から眺めて居たというのである。このエピソードは『啄木賢治の肖像』(岩手日報社、2018年、106—110頁)に出ている。
そのときの心境は短歌と文語詩に残されている。
山上の木にかこまれし神楽殿 鳥どよみなけば われかなしむも。 (短歌番号179)
この歌に出てくる神楽殿は胡四王神社の境内にある(図5)。
宮沢賢治記念館は胡四王山の山頂付近の台地を利用して建設された。なぜ、胡四王山に? 実は、建設場所については、かなり真剣な検討がなされたそうだ。WEBサイト「宮沢賢治の詩の世界」の胡四王山のページに次の解説がある(図6)。
そして、もっと決定的な文章が出てくる(図7)。
山頂にある数本の大きな杉の木が、まるで「トサカ」のように立っていて、ひときわ目立つ形をしているのが特徴です。
胡四王山の山頂には麓から「見分けられる」巨木があったのだ。これで結論が出た。「天気輪の柱」は花巻の町外れの丘の上にあったのだ。
旅の終わり
一泊二日の花巻・盛岡への旅。「天気輪の柱」の謎を追いかける旅だった。しかし、その旅もあっけなく終わってしまった。
ということで、今は金沢にいる(図8)。敦賀へ向かう北陸新幹線(図9)。その線路を走るのも銀河鉄道なのだろうか。
「賢治さん、旅は続くものですか?」
「なあに気にしない、気にしない。永久の未完成、これ完成である!」