「宮沢賢治の宇宙」(41) 「天気輪の柱」はどこにある?
賢治の残した謎の言葉「天気輪の柱」
宮沢賢治の作品には謎の言葉が多い。童話『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」もそのひとつだ。原子朗の『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房、2013年)を紐解くと、その難解さがよく分かる。
天気輪 おそらくは賢治の造語。賢治の描写が具体性を欠くため諸説がある。
このあと、2頁にわたって諸説の紹介がある。あまりにたくさんの解釈があって驚く。ここでは、第一歩として、「天気輪の柱」がどこにあるのか考えてみよう。「天気輪の柱」の候補については、次回以降のテーマとしたい。
「天気輪の柱はどこにあるのか?
『銀河鉄道の夜』の第五節、「天気輪の柱」は次のように始まる。
牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連なって見えました。ジョバンニは、もう霧の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。・・・
ジョバンニは山道を登っていく。
・・・草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて、・・・
そして。「天気輪の柱」が出てくる。
・・・その真っ黒な松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて。天の川がしらしらと南から北へ亘ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。・・・ (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、133頁)
「頂きにある天気輪の柱が見分けられる」 この描写は二つの可能性を示唆する。
[1] 頂きに設置されているのか
[2] 頂きに浮いているのか
もちろん、普通は“設置されている”ことを思い浮かべる。しかし、私は天文学者なので、浮いている可能性も考えてしまう(図1左)。
さらに次の文章が続く。
・・・つりがねさうか野菊の花か、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き、・・・ (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、133—134頁)
ここで、釣鐘草が出てくる。カムパニュラだ。その後、ジョバンニは無事に「天気輪の柱」に到着する。
・・・ジョバンニは、頂きの天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。・・・ (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、134頁)
「天気輪の柱の下」という表現は「柱の真下」である可能性もある。もし、真下なら柱は宙に浮いているとしてよい。一方、柱が地面に設置されたものだとしたら、「柱の下」とはなんだろう。山肌には少し傾斜がある。下から登ってきたジョバンニは当然のことながら、山肌の傾斜の下側の方から「天気輪の柱」に辿り着く。地面の傾斜のことを考えれば、柱の下に着くことになる(図1右)。
『銀河鉄道の夜』の舞台はどこなのか?
「天気輪の柱」がどこにあるのか? この疑問に答えるには、『銀河鉄道の夜』の舞台を知る必要がある。舞台がどこかわからないことには、話は始まらない。そこで、『銀河鉄道の夜』の最終形(第四次稿)における各節の舞台をまとめておこう(表1)。
『銀河鉄道の夜』の舞台は、賢治が過ごした花巻と盛岡の周辺であることは間違いない。第一節の「午后の授業」における先生の平易な説明ぶりを見ると、ジョバンニたちは小学生だ。そうすると、賢治が小学生の頃に住んでいた花巻が舞台であると考えてよい。実際、今までになされてきた考察でも、舞台は花巻であるとされている。
「午后の授業」の舞台となっている小学校については、その名前を特定できる情報はない。賢治が通っていた花巻川口町立花巻川口尋常高等小学校がイメージされていたかもしれないが、小学校であればどこでもよさそうだ。
やはり、花巻?
続く三つの節、“活版所”から“ケンタウル祭りの夜”では、ジョバンニたちの街の風景に関する情報がある。それらの情報から、入沢康夫と天沢退二郎が町の地図を作成している(図1;『討議『銀河鉄道の夜』とは何か』(入沢康夫、天沢退二郎 著、青土社、1976、25頁)。この図には、ジョバンニが住んでいたとされる長屋、時計屋、電気会社、雑貨屋、牛乳屋、そして第五節で出てくる天気輪の丘も示されている。
この町の様子については、寺門和夫による『 [銀河鉄道の夜] フィールド・ノート』(青土社、2013年、64-69頁)と、椿淳一による『ジョバンニの銀河 カムパネルラの地図 「銀河鉄道の夜」の宇宙誌』(同時代社、2015年、162-175頁)にも詳しい議論が載っており、大変参考になる。
椿淳一による『ジョバンニの銀河 カムパネルラの地図 「銀河鉄道の夜」の宇宙誌』には大正時代の花巻の地図が載っている(図2)。ただし、天気輪の丘に該当する場所はない。
なお、椿は「天気輪の柱」を通信設備(地上と銀河を結ぶ電波塔)であると解釈している『ジョバンニの銀河 カムパネルラの地図 「銀河鉄道の夜」の宇宙誌』(同時代社、2015年、「ノート7 二つの柱」、156-161頁)。また、地図を南北逆転させ、『銀河鉄道の夜』に出てくる野原は陸軍工兵演習場にあると推測している。この場合、そのさらに先に天気輪の丘があることになるが、実際に該当する丘はない。
第二節から第四節に出てくる、キーとなる場所についてまとめておく(表2)。
カムパネルラが水死した川は北上川で、橋は旭橋とする説もある。だが、寺門和夫は豊沢川と豊沢橋を採用している。また、吉見正信による『宮澤賢治の原風景を辿る』(コールサック社、2014年、355頁)では、活版所は盛岡の山口活版所の支店である岩手活版所とされている。
寺門と椿の考察によれば、舞台は当時の地図通りにはなっておらず、地図を反転させたり、方角をずらしたりしなければ、物語通りにはならないという。賢治独特のアレンジ癖が出ている。ただ、表2に示したように、『銀河鉄道の夜』に出てくる場所は概ね花巻に該当する場所がある。やはり、舞台は花巻としてよい。
町外れの丘はどこにある?
牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。(第十一巻、133頁)
「天気輪の柱」のある丘は町の北外れにある。ところが、実際に該当する場所があるものが多い中で、「天気輪の柱」のある丘に該当するものはない(表2)。
銀河鉄道の旅立ちのシーンは『銀河鉄道の夜』の第五節の「天気輪の柱」と第六節の「銀河ステーション」にある。
まず、第五節の「天気輪の柱」。
・・・ジョバンニは、頂きの天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。・・・ (第十一巻、134頁)
つまり、旅立ちの場所は丘の頂上付近である。
次に、第六節の「銀河ステーション」には次の文章がある。
そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりとした三角標の形になって、しばらく蛍のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐるのを見ました。・・・ (第十一巻、134頁)
この後、ジョバンニは銀河ステーションという声を聞く。そして、気がつくと天空を走る銀河鉄道に乗っていた。つまり、一瞬にして地上から天空へと旅だったのだ。したがって、「天気輪の柱」のある丘は銀河鉄道の旅の始まりの場所。極めて重要な場所なのだ。
問題はその場所はどこかだ。花巻なら身近な丘(山)としては、胡四王山がある。近いとはいえ、ジョバンニが走って簡単に行けるほど近くはない。
賢治の頭の中にあった丘(山)を想定している可能性がある。その場合、盛岡なら賢治がよく登山を楽しんだ岩手山でよい。また、岩手県奥州市にある種山ケ原もありうる。実際、賢治はこの場所をモチーフにした童話をいくつか書いている。『風の又三郎』や『種山ケ原の夜』などだ。
南昌山?
そんな中、岩手県在住の賢治研究家である松本隆が興味深い説を提案している。『銀河鉄道の夜』の舞台は岩手県矢巾町と雫石町の境にある南昌山の頂上だという説だ。矢巾町は盛岡中学校時代の親友、藤原健次郎のふるさとである。賢治は何度も藤原健次郎の実家を訪れ、連れ立って南昌山に登っていた。そして、南昌山の頂上には天気の回復を願う石柱群がある。これは「天気輪の柱」のよい候補となる。
さて、『銀河鉄道の夜』の舞台について考えてきた。「天気輪の柱」のある丘については、入沢、天沢、寺門、そして椿は、いずれもジョバンニの住んでいた町の北外れにある丘としている。賢治の頭の中にだけ存在した丘、架空の丘だ。
私たちが手にすることができる情報だけでは、「天気輪の柱」の正体を理解することはできない。
追記:「病技師 〔二〕」にも出てくる「天気輪」
「天気輪」という言葉は『銀河鉄道の夜』以外の賢治の作品にも出てくる。文語詩のひとつである「病技師 〔二〕」という作品だ。わずか四行からなる詩。最初の二行を見てみよう。
あえぎてくれば丘のひら、 地平をのぞむ天気輪
白き手巾を草にして、 をとめらみたりまどゐしき。 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第七巻、筑摩書房、1996年、160頁)
「丘のひら」なので山頂ではないが、高い場所でなければ地平はのぞめない。もちろん、この「天気輪」と『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」と同じである保証はないので注意が必要だ。実際、ここでの「天気輪」は「五輪塔」が書き直されたものであることがわかっている(『【新】校本 宮澤賢治全集』第七巻、校異篇、筑摩書房、1996年、502頁)。
「五輪塔」は岩手県の五輪峠(花巻市、遠野市、奥州市の先にある峠で、所在地としては小友町 [おともまち] になる)に建っているものだ(図3)。五輪峠は賢治ゆかりのイーハトーブ風景地に選ばれた場所でもある(2005年3月2日)。
『春と修羅 第二集』の詩「五輪峠」には次の文章がある。
あゝこゝは
五輪の塔があるために
五輪峠といふんだな
ぼくはまた
峠がみんなで五っつあって
地輪峠水輪峠空輪峠といふのだらうと
たったいままで思っていた
地図ももたずに来たからな (『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、筑摩書房、1996年、14頁)
1924年3月24日の日付がある。『銀河鉄道の夜』の第一次稿を書き始めた年の作品である。なぜ、天気輪を五輪塔に書き換えたかは不明だ。賢治お得意の「mental sketch modified(心象スケッチ修正版)」なのか。
note「宮沢賢治の宇宙(9)心象スケッチModified への道」https://note.com/astro_dialog/n/n5c406116376f
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