見出し画像

第1章「星に触れる夜」第2話

「自己とは何か?」
現代のアイデンティティを探求する物語

ーAIと人間が共存する未来、
感情を巡る葛藤と希望ー


1-2話

デスクに戻ると、EVE-4.7の最新データを開いた。ミラはモニターに目を通しながら、冷静に分析を始める。

(感情のズレはすべてデータとして把握できる。それを制御できれば、無気力症候群に苦しむ人々を救える。あとはEVEに完治機能を持たせることさえできれば完璧なんだ)

ミラ自身、かつて無気力症候群に苦しめられた経験がある。5年前、EVE-1.0が完成したまさにその年、ミラは無気力症候群を発症し、研究所で治療を受けるために併設された施設に入院することになった。

当時の記憶は断片的にしか残っていない。生きることを拒むこともできず、ただ、時折襲いくる強い衝動に身を任せ、叫ぶしかなかった。しかし入院してしばらくすると、衝動はその頻度をゆるめ、同時に消えたいと思うこともなくなっていった。

ミラは1年後、奇跡の完治者として退院することができたのである。

あれから4年が経つわけだが、その後誰一人として再発の恐れのない真の完治者は出ていない。当時学生だったミラは復帰後、早々に尊河レムに呼ばれた。そこで直接研究所の職員として働くことを打診されたのである。

「鏡ミラ、君の経験があれば人々を救うことができる。安定した世界へと導くため、手を貸してもらいたい」

ミラとしてもそれはありがたい誘いだった。自分の経験が役に立つ、これはそれまで人生の目標のなかったミラにとって大きな喜びであり、生きがいとなる。

「君は無気力症候群から完全に立ち直った。それは普通の人間にはない強さを秘めていたからに他ならない。特別な人間だということだ」

レムの言葉はミラの胸に深く響いた。

「今の君は先端技術を集結させた装置の能力を超え、いまだ拡大を続ける未知の病を克服したのだから、自信を持っていい。そしてその自信でもって人々の弱さの克服法を構築してもらいたい」

「……弱さ?それはつまり無気力症候群は弱さゆえに発症するというのですか?」

「ああそうだ。あれは人間が自分自身を見失う病だ」

深い闇を覗き込むようなレムの瞳には、不思議と冷たさだけではない、何か確固たる芯のようなものが宿っているように見えた。

「リサーチオフィサーも──」

(……っ)

頭の奥にチリリとした鋭い痛みが走る。まるで何かが無理やり意識に接続しようとしているかのような不快な感覚に、ミラは眉をひそめた。と同時にミラの意識が過去の記憶から現実へと引き戻される。

時折現れるこの不快な頭痛。脳を酷使し過ぎたせいか、おそらく睡眠不足が原因か。目の疲れもピークなようで、モニターに並んだ数字の羅列が少しぼやけているように感じる。

ミラは椅子から立ち上がるとゆっくり窓際へ移動した。こういう時は一度意識を外へ向けることが大事だ。同じ処理を繰り返していると脳がオーバーヒートを起こす。大切なのは適切な対処法だ。

窓の外にはいたるところに巨大スクリーンが浮かび上がり、新商品の宣伝が流れている。欲しいと思えば、画面に向かって、手首に取り付けられた個人専用の高度なAIアシスタントが搭載されたデバイス『ノバ』をかざせばいい。詳細な情報も手に入るし、その場ですぐに購入もできる。

中でも一際大きなスクリーンがピコンと青く点灯した。ニュースの合図である。

「速報です。本日朝8時頃、街の中心地に位置する36階建てのビルから女性が飛び降りました。目撃者の話では彼女は無気力症候群の兆候を示していたとのことです。詳しい原因は調査中です」

ニュースキャスターの硬い声が流れ、映像には現場の群衆と、シートに覆われた遺体が映し出された。
近くを歩いていた同僚が足を止めると眉をひそめた。

「またですか……最近、無気力症候群の自殺率が上がってますね」

「再発者が増えているんですよ。これも感情操作技術がもっと進めば防げることです」

ミラはそう言いスクリーンをじっと見つめながら、データとして記録された彼女の感情データを探るべきか考えていた。

(おそらく数値の流れからくる行動パターンは先日の被験者と同じだろうが、データは多いに越したことはない。手間ではあるがこんな悲劇を1日も早くなくすことが先決か)

今朝早くに研究室で見たばかりのグラフが思い出される。ある地点を境に悪化するデータ。あの地点の何かが再発を誘導するきっかけになっていることは間違いない。だがその原因が見えない。

(何が引き金になっている?)

いつの間にか、スクリーンは広告へと切り替わっていた。気づけば不快な頭痛も消えている。

ミラは窓ガラスに映る自分の姿に焦点を合わせた。そして自身の感情に揺らぎがないことを確認すると、静かに窓ガラスから離れ、研究室へと向かった。

◀︎Previous story next story▶︎


いいなと思ったら応援しよう!