On Body and... 態変『ヴォイツェク』
"On Body and…" は鑑賞した作品について身体(そこで見たパフォーマンス、絵画、舞踊の中の、そしてそれを見るわたしの)に重点を置きながら、考察するシリーズです。
態変第78回公演 ヴォイツェク
原作=ゲオルク・ビュヒナー
演出・芸術監督=金滿里
音楽=かつふじたまこ
出演= 金滿里 小泉ゆうすけ 下村雅哉 渡辺綾乃 井尻和美 池田勇人 向井望
ヴォイツェクは砂漠にいるのだろうか。地面を転がり出て強い風に押され、引っ張られ、抗うこともできずにごろごろと流されていく。イスラエルによる空爆によって虐殺される仲間たちを置いて、荒れた砂漠を歩きテントを張ってなんとか生きようとするパレスチナの民にも見えるシーンで本作は始まる。
「ヴォイツェク」はゲオルク・ビュヒナーの戯曲をもとにした不条理劇であり、態変による上演は三度目。19世紀初頭ドイツで下級兵士が実際に犯した殺人事件をもとにした「ヴォイツェク」を金満里は、近代化と共に実行されてきた複数の侵略戦争やそこで生きなければならない民衆の姿に重ねて描いたという。
本作で印象的だったのは、パフォーマーの表情と身体のかけ合わせだった。世の底辺を生きるヴォイツェクは雇われ先で横暴な振る舞いを受け、人体実験の被験者としてネズミのように扱われても表情を変化させない。実験のためのエンドウマメを永遠と頬張りながら、観客のほうに顔を向けるヴォイツェクは何かを感情にして表す可能性があることさえ忘れているようだ。
ヴォイツェクに散髪をされている大尉は、早く仕事を終わらせろと彼を蹴りつけるが、彼は平然として仕事の手を早めることも止めることもしない。蹴り上げた足の裏には光が当たり、暗闇の中から白い三角形こちらに飛んでくるかのような印象を受ける。ヴォイツェクは蹴り上げられることが当たり前になっているのか、びくりともせずに、一定のペースで仕事を続ける。
妻のマリーも同じように感情の読めない人物として現れる。子どもをあやしヴォイツェクに手渡す様子には献身的な妻や母の姿が重なるがそこに表情はない。その彼女が1人でベランダに立ち、目線を下げつつじっと立って軍楽隊の行進を見ているときも感情を読み取ることはできない。行進しているのは軍楽隊だが、こちらも表情がなく、楕円垂や縦長四角の図形が並行移動しているように錯覚する。両者ともに感情を奪われた人々だが、マリーと軍楽隊の小隊長は次のシーンで互いの体を欲しあう。
態変のパフォーマーの身体は、その身体の障がいゆえに私たちの思い描くように所作は完結せず、身体のまとまりはゲシュタルト崩壊して記号や図形のように見える時がある。今作ではそうした身体の抽象性が強調され、パフォーマーの身体の部分部分は舞台の上に見ていると思ったものを、組み木のピースのように分解する。そのうち一片のピースはこちらに飛んできて頭の隙間にがちゃんと音を立ててはまり、観客も舞台上の出来事のピースの一片になる。
ビュヒナーのひとりぼっちの子どもの詩(後述)の歌とともにパフォーマーが現れるシーンでは、子どもが可哀想だとか、悲しさを感じるとか、孤独に共感するなんていう距離を取った見方はできずに、ただただその子がみている景色を見ようとすることができたのはそういう理由だったのではないだろうか。
表情の見えないことがパフォーマーの振る舞いをより際立たせるシーンもあった。マリーの幻景という中盤のシーンで彼女はチマチョゴリを思わせる襟ぐりと胸の下から膝くらいまで広がるシュミーズの裾のなかで手を動かし、小さく茶色の人の形をした人形を引っ張り出す。そのあとには水色の長いへそのおがずっと続き渦を巻く。胎児と思われる人形をマリーが取り出す手つきには感傷などなく、彼女が自らの身体について決めることのできた唯一の瞬間のようにも見える。
作品の最後には、ヴォイツェクが強い照明の光のなかナイフを取り出してこちらに構える。照明が赤に変わりヴォイツェクの怒りが吹き出すかと思われた一瞬ののちに、赤ん坊の泣き声がして彼はナイフを床に捨てたように見えた。ビュヒナーの戯曲が不条理でもなんでもなく感じるのは、今私たちの生きている状況そのものが描かれているからだろう。子どもという存在をことば通り抱え持つことで、私たちは暴力を行使しないことができるのか。何も一人でなすことのできない子どもは障がいのある人々、高齢者、病者、難民たちに繋がっていく。力を持たないかれらを殺すのではなく、悲しみ、怒り、愛そうした感情を喚起させる源をしっかり見極めること、そこから暴力を行使しない方向へ舵を切っていきたいと思わせる作品だった。
作品について
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