mimacul『文体を歩く 登山編 「オノゴロン」』
"On Body and…" は鑑賞した作品について身体(そこで見たパフォーマンス、絵画、舞踊、写真の中の、そしてそれを見るわたしの)に重点を置きながら、考察するシリーズです。
mimacul『文体を歩く 登山編 「オノゴロン」』
日時|2024年 7月19日(金)〜 21日(日)各日11時 / 14時 / 17時
会場|TESSEN テッセン
【テキスト】
Ichizo Yoshioka、海山みせん、嵯峨実果子、背中す春、納屋納屋
【上演構成】
増田美佳
【振付/演出/出演】
川瀬亜衣、佐伯有香、納屋納屋、増田美佳【音楽/出演】
Ichizo Yoshioka
マジカルバナナ、バナナといえばきいろ。きいろといえばピカチュウ。ピカチュウといえば電気・・手拍子をしながら延々と続く連想ゲーム、しりとり、誰かの役で喋り続ける遊びを友達や妹と小さな頃よくしていた。ことばはリズムと音であって、あんまり意味はなかった。ことばの渦をみんなでつくって遊び続けると、ぐるぐる回るその中で泳ぐような自由さがあった。
mimaculのツアパフォーマンス「オノゴロン」の不思議な感じを反芻していて思い出したのはそんな記憶だった。ツアー場所は、mimaculを主宰、出演する増田美佳が幼い頃から祖父母ら家族と暮らした京町家で、彼女は時を経て再びその家に戻り、家の改修をしながらそこで4世代目を育てようとしている。家からは戦意高揚をうたうイラストの描かれた戦前の布地や、革加工が行われていた地域の歴史に因んでいるのか、靴売り場の幟が出てくる。それらの由来ははっきりとはわからない。そんな家や家族の歴史を聞いてから、5名ほどの鑑賞者と一緒に京町家の中を巡るツアーが始まる。
二階の広間では、後妻として家に来た祖母がお花とお茶のお稽古場を開いていた。彼女はこの家で介護され、亡くなったそう。私たちは寝転がって自由な姿勢をとるように言われ、木貼りの天井を見上げているとカサカサと音がしてくる。肩幅よりも大きな和紙を両腕にかけ、風をおこして音を立て、紙の重みと音で踊る川瀬亜衣が視界の端に時々入ってくる。そういえば、こういう気分の日があった。夏休みの昼下がり、涼しい室内で何もしないでごろんとして、暑そうな窓の外を見てぼんやりしていた時だったかしら。 Ichizo Yoshiokaがその場で音を出して、採集し、反復しつつつくっていく音楽は、しりとりの輪の中にいるようにその場を音で満たしていく。
案内された屋根裏へと続く跳ね上げ階段のある部屋の壁には、回転式のスライド映写機で古いネガが投影されている。屋根裏には大量の古い家族写真が置かれている。屋根裏にこもった熱を和らげようと首を回す扇風機から浴びる熱風、スライドを回していく機械の熱は、埃を被った分厚い家族アルバムを開くときに、その重みの意味を考えないようにしようとする無感動な気分と似ている。
町屋の一角を改装して洋風の板張りにし、クローゼット、洗面台、洋式トイレが続く一間では、パジャマからスーツに着替え、髭を剃る人(納屋納屋)を見ることになる。ミラーボールがクローゼットの上でスローに回ってキラキラ光を反射している。これはバブルで独身時代の父が仕事に向かう前の髭剃りを見ているのだろうか。
何かのイベント、お祝い事、仕事といったものの間を繋ぐ、家の時間に満ちている空気が煙のようにぼんやり立ち上ってくる。改装中の町屋の部屋、窓、襖で区切られた空間ごとの面白さを使いながら、毎日の生活を作っているリズムを少し増幅させて、そこに漂う気分を見返すような上演になっていた。
本作のタイトル、文体を歩く登山編というのは、まず公募によって集まったメンバーと上演のためのテキストをさまざまな方法で書き、創作物をまとめる冊子を作った試みのことで、その冊子のことばをもとに本作が構成されたという。
書くテーマとしてそれぞれが試みたのは「主にひとりでは書けない/書かないであろうことを自分の書くに積極的に招き入れること、また強い主張や物語が扱えないようななんでもないことをどのようにして掬い取り作品化できるか」ということだった。演出家や脚本家の強靭なプランのもと上演を行うのではない協働的な制作、発表のあり方を模索する団体やプロジェクトは増えているが、物語や短歌、詩などどちらかと言えば書き慣れない書き物をメンバーと遊びのなかで書いてみることから、共有(読むこと)できるが、各々の生活や経験が垣間見える文体を探っているところに面白さがある。「文体」と書くのはなるほど、文と私たちの身体は相似形で、似た形や経験をしているが、違いを探索していくことができる楽しさがある。
今回生まれた文体は、文や体を模るためのルールであったり、見ている私を感嘆させる技巧や装飾ではない。自分のいるところから少し遠い、接続しているかわからない目的地への通り道を作り出している。それは協働的な創作によるメンバーのつながりが感じられるということや、文体が読者に開かれているということでもあるし、自分が経験していない時間を生きてきた家や人とも繋がるかもしれない道を作るということでもある。なぜそのようなことを思ったか。それはツアー最後のこと。ぐるりと2階の部屋巡る時間旅行の後に、座ってお茶を出してもらい、襖が開かれるとツアー中、壁塗りのを手伝ってと言われた部屋にわずかな煙が立っている。そのさらに向こうのガラス戸の向こうで、人影がガラスに近づいたり離れたりして大きさを自在に変えながら動いている。ガラス戸が開くと佐伯有香がくるりくるりと片手を垂直の軸に下ろし、身体を傾けて円錐形を作るように回り、淡々とダンスをしていた。派手なことのない日々をこなすリズムが舞踊へと変化していく様子を見るようであり、ここで暮らしたという祖母が家の中から蘇って自由に踊っているようにも思えたのだった。
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