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アレッポの旅は続く:カオスから希望へ―個人的省察ー

哀しい目をしていた

2024年12月7日、シリアのバッシャール・アサド政権が崩壊した。父、ハーフェズの死去(2000年)を受け、就任当初は、民衆とともにシリアの民主化を、少しずつでも推し進めようと比較的穏健な統治を行なっていた息子、バッシャール・アサド。
当時かつてシルクロードの一大拠点としても栄えたアレッポの旧市街の壁に掲げられていた巨大ポスターに描かれた哀しげな目線は、父、ハーフェズがこの町とは距離を置き、一度も訪問しなかったためというより、むしろシリアの絶望的な行く末を暗示しているようで記憶に焼き付いている。
案の定、就任当初、民衆の期待を背に父親の取り巻きたちの既得権益を切り崩そうと、彼らの側に立って改革を進めていたように見えたバッシャール。その彼がただ冷酷なだけの独裁者になり果て、ロシアに脱出とはあまりに哀しい。

アレッポのスーク

ハーフェズ・アサドから2代50年にわたる独裁体制から解放されたと、マスコミは、呆れるほど乱暴なまとめようで、この国の50年を括る。父アサドの時代の1993年10月より6年弱をシリア、アレッポに暮らし、2011年に民主化運動が始まってもなお、数年はアレッポを訪れていた筆者としては、そんな単純な話ではないのだよと憤る。

いろいろな人の顔が浮かぶ、依然としてアレッポに残っている、古い友人たち、お世話になった先生がた、アレッポ大学の学生たち。私の記憶の中ではアレッポ城も、アラブ三大スークの一つアレッポのスークも、その商人たちも健在だ。しかし、その多くは、隣国トルコへ逃れた。避難先のガズィアンテップの旧市街周辺がアレッポのそれに酷似していたのを思い出す。それが現実だ。そこには、民主化運動で国が二分されつつあるなかでも、職場には体制派と反体制派とが一緒に働き、国のありようを議論していたことを懐かしむこともない。

民衆不在の…

始まりは、2011年。シリア南部の都市ダラァアの人々による政治犯釈放の訴え。それを伝えた「CNNの報道」で、政権打倒を目指す民主化へと民衆たちのスイッチが入ってしまった。当時のシリア国内のデモを伝えるニュース映像は、怒涛の民主化のうねりを思わせたのだが、「エジプトも、リビアも同じだ。CNNにやられた」と性急な民主化を危惧する友人からの声も聞こえてきた。
「アラブの春」のあとにきたのが、オアシスをつぶしあうような「夏」。気が付けば、イスラーム国をはじめとするイスラーム過激派、そして、イラン、ロシア、トルコを巻き込んでの、民衆不在の内戦状態。
結局、この長く厳しい夏。イスラエル国家の帝国主義的野望のぎらつきが増している。この一帯随一の豊かな水源地であるゴラン高原は、これまで停戦地域として国連の管理下にあったが、政権崩壊の権力の空白を突いて早速イスラエルが占領してしまった。ナイル川からチグリスユーフラテス川という二つの大河の間の領域的な支配さえ視野に収めたのかもしれないが、地域の不安定化は悪化の一途だ。「ゴラン出身の」という意味のジャウラーニー(近時は公表名をシャルア(法)に変更)とイスラエル政府、さらには同盟国アメリカ政府との関係も気になる中でのシリア解放。シリアの冬は恵みの雨の季節なのだが。

アッラーの力、人間の力

聖典クルアーンの中に、「塹壕の主たち」(「星座章」第4節)の話が降されている。「塹壕の主たち」とは、モーゼたちを迫害したファラオ(フィルアウン)のような暴君のこと。宗教的少数派や異なる信仰をもつ人々を容赦なく迫害し、果ては塹壕に放り込んで焚死を強いた。彼は軍勢もろとも殺された。だがファラオの後にクライシュ族が現われ、ムハンマドたちに想像を絶する迫害を行なったように、「塹壕の主たち」に象徴されるような独裁者、抑圧者の出現は後を絶たない。

たしかにバッシャール・アサドは去った。しかし、虎視眈々と次を狙っているのが、現代の「塹壕の主たち」である。聖典クルアーンに言われているように、塹壕の主たちの行く末は明白。だが懸念は、そこに至るまでの現世における暴力のエスカレーション。戦争、紛争、迫害、民族浄化、今この瞬間も、圧倒的な力の前で声さえ出せない人々がいる。
しかし、「実にアッラーの(懲罰の)力は、何倍にも激しさを増し、際限がない」(星座章12節)のだ。つまり、塹壕の主たちが迫害や懲罰のために「人間の力」つまり、暴力を振り回したところで、「アッラーの力(バトシュ)」が必ずこれを凌駕する。だが同時に、人間の力が「アッラーの力」を目指してしまったのなら、「人間の力」の方も天井知らず。現に広島と長崎に原爆を投下したのが、その「人間の力」だ。シリア内戦で、化学兵器を使用し、あるいは都市を徹底的に破壊したのも「人間の力」。天井知らずのエスカレーション。正念場はここからだ。

生命の源

クルアーンにおいても、死んだ大地を甦らせる「水」は生命の象徴。たとえば、《アッラーは、空から水を降らせ、それによって死んだ大地を生き返らせる。それはよく聴く者たちへの徴しである》(蜜蜂章65節)。数滴の雨で砂漠が豊かな牧草地に変わる。しかし、地球全体が異常気象で、天からの水があてにならない。降れば降りすぎ、照れば照りすぎだ。紅海でファラオ(フィルアウン)もろともその軍勢を飲み込んだ「水」、あるいはそれをも凌駕する「津波」という海からの水もある。
だからなおさら試される、甦りの鍵を握る「水」を分け合う人間たちの叡智。ゴランの水を独占するための暴力がすでに人々を泣かせている。涙はもういらない。欲しいのは汲めども尽きぬ叡智の泉水、そしてなにより命育む慈悲慈愛の雫水だ。アッラーご自身がすべての存在の主であり、究極的な慈悲慈愛そのものであられるのだ。

私たちのアレッポ

少なくとも4000年の歴史を誇るアレッポ。アルメニア人はじめ迫害から逃れてきた20を超えるキリスト教諸宗派が安住の地を見出した町。クルド人のオリーブ畑の農場主の家族が、豊かに暮らしていた町。イスラームを最もよく実践した都市とされるのも頷ける。

テレビの解説は、すぐにそれぞれの勢力範囲を色分けする。人々は対立し分かり合えないことが前提で、アレッポが共存共栄の都だったことなど伝えようともしない。しかし、歴史はこの町の共存共栄の実績を証言する。そこにこそ希望がある。さらに国外に逃れていたよきアレッポを知る100万単位の人々。彼ら戻ってくれば、ムハージル―ンとアンサールの連帯意識、そしてファーラービーの有徳都市を思わせるような共同体意識の復活も期待できる。

再生への旅

アレッポのイスラームは、イスラームを現実の中に程よく落とし込んで、人々の助け合いを引き出し、必ずしも原理原則にこだわらない。幸いにして、アレッポ大学に、筆者が1994年の設立時にムディールを務めた「学術交流日本センター」がある。かつての交流拠点が、復興に向けた支援と学びと発信のセンターになる。長年の日本との交流で培ってきた日本的な利他の精神は、イスラーム的なそれと重なりあう。必要なのは、社会づくりの基礎となる価値観の掘り起こしと再構築。
アレッポにもそして避難先から戻ってくる人々の中にも、日本センターにかかわり、また過去にかかわってくれたOBOGは数多い。アレッポ再生の第1歩として、学術大会をプロジェクトを開催し、アレッポが歴史的に多様性を体現した都市であること、異なる背景を持つ人々の協力の具体例を紹介し、再生に向け、現状を確認し、今日的な課題と展開の可能性を議論する。
さらに、有志を募って、「アレッポの歴史の中の宗教・民族の多様性」を検証したり、異なる宗教や民族の代表を招いて具体的な協力関係の構築について議論したりと、再生をテーマにした定期的なワークショップを開催しコアの活動にしていく。
そうした活動の中で、日本語とアラビア語が意識にもたらす心象イメージの違いをベースにしたアレッポ的民主主義の構想――たとえば、人々の全体を慈悲慈愛で包むようなイスラームのよき実践と、一人一人が主権者であるという西洋的民主主義の大原則とを両立させる社会的な枠組み。異なる信仰や民族、背景をもつ人々が互いに助け合いながら共に生きる社会の在り方を実現する――ができれば、このセンターならではの活動になるはずだ。従来の文化交流では経験のない社会再建のための交流が行われるのだ。そうして様々な人々が学術で繋いだ多元的なネットワークによる緩やかな連携が実現すれば、希望の光が見えてくる。
必ずやアレッポは再生する。ビイズニッラーヒ・タアーラー。アッラーフ・アアラム(至高なるアッラーの御許しによって。アッラーはすべてを御存知)。

タイトル画像:

アレッポ城からアレッポ大学方面を望む(2011年9月筆者撮影)

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