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「アル=カーリア」の呻き(前編):《クルアーン》「アル=カーリア」章をめぐって

「アル=カーリア」と言われても。。

「何だこのタイトルは?」と思われるかもしれない、何しろ、ここまでの数行は「アル=カーリア」のオンパレードなのだから。「アル=カーリア القارعة 」は聖典クルアーンの全114章の中の第101章の章名であり、しかも同章は、この「アルカーリア」で始まる。本稿では、この「アルカーリア」を取り上げ、まさに、クルアーンに「アルカーリア」と言われたときに何が伝わるのかについて考えてみたい。

{القارعة}(1)

「アル=カーリア」[1]、クルアーンの章名になっていて、「最後の審判の日」を意味する言葉である。ものすごく恐ろしい日ではあるのだけれど、アル=カーリアと言われたときに、あるいは、聖典に読んだときに、そわそわというのか、じりじりというのか、あるいは、恐怖に足がすくんだり、顔面から血の気が引き、冷や汗がたらーとは伝い落ちる感じだったりというような、恐怖に直結するような「怖さ」が伝わってこようか。

シニフィアンとシニフィエというのではなく、あるいは、シニフィエに強弱がある[2]というのでもなく、読んだときに、直ちに心の中に、「意味」というより、「圧」みたいなものを感じられるかどうか、「最後の審判の日」であり、終局的に各人の生きざまの評価の場面であるだけに、正しく脅しになっている必要があるのだけれど、果たしてどうか。

「アル=カーリア」とは、「最後の審判のことです」と別の言葉で意味を了解すれば、「あー、そうなのね」とはなっても、「アルカーリア」が本来持っているはずの、これはただ事ではないという風にはならないのではないか。この言い換えによって、言語の違いを超えて、意味を理解することにはなるのだが、「アルカーリア」が持っている語感だとか響きだとか、「サーア」(「時、時間」の意だがしばしば最後の審判のときを指す言葉としても用いられる)でもなく、「キヤーマ」(「復活」の意で、これも最後の審判のときの「復活」の意味で用いられる)でもなく、カーリアだけに固有な「圧」が何なのかの理解は、読まれるものとしてのクルアーンに下されていることだけに、このほんとどのように向き合ったらよいのかを考えるうえでも多くを教えてくれるはずである。

 音が意味に直結しているような言葉。音が様態、状態を示すオノマトペさながらに、意味やイメージというより、圧、あるいは空気みたいなものを伝える言葉をいかに理解するのかが、アラビヤ語ネイティブではないクルアーンの読み手、そして、そういった人々を権力による解釈の体系としてのシャリーアによる支配、つまり、個別の法規による拘束への服従ではなく、アッラーに対してより直接的に服従しようとする人々にとっても、不可欠な試みであると考えられる。

 

「アル=カーリア」という音

{القارعة}(1)

そこで、本章のカーリアの語自体の解説を訪ねることにしたい。いくつかの注釈書に尋ねてみよう。

サーブーニー

サーブーニーの『サフワッタファースィール』は、次のように解説する。

[ القارعة ] اسم من أسماء القيامة ، سميت بها لأنها تقرع الخلائق بأهوالها وأفزاعها ، وأصل القرع الضرب بشدة وقوة ، تقول العرب : قرعتهم القارعة وفَقَرَتْهم الفاقرة ، إذا وقع بهم أمر فظيع

〔アルカーリア〕:復活の日の名前の一つ。人々がその恐怖と衝撃で叩き打たれることから。القرع とはもともと、強く激しく叩くこと。アラブは言う「カーリア(惨事)が彼らを叩き、ファーキラ(災難)が彼らを穿つ。もしも彼らにおぞましいことが起こったならば」。

  ズハイリー

ワハバッ・ズハイリーの『タフシール・ムニール』によれば、アルカーリアとは、「復活の日の名前の一つ。激しい恐怖と衝撃でもって心と聴覚を叩くことからそう呼ばれた」とされる。

 叩くという言葉が解説の中に入ってくるのは、アル=カーリアから定冠詞のアルを除いた名詞「カーリア」と同じ語根の動詞カラアの意味が「叩く」だからである。

クルトビー 

クルトビーの解説はさらに詳しい。彼は、1節・2節の解説に次のように記している。

「復活と最後の時。解釈学者は全般的に、アルカーリアが人間たちをその恐れと衝撃で人間たちを叩くことだとしている。

言語学者たちによれば、「アラブでは、アルカーリアが彼らを叩き、アルファークィラ(災難が)が彼らを穿つ。もしも彼らにおぞましい何かが生じたならば」(と言う用いられ方がある)。

イブン・アフマルは言った。「ある日突然やってくる災いにかけて。もしもかれらに(アッラーに向かう)道がなければ あなたから時間を取り去る」。

さらに別の者は次のように詩を詠んだ

あなたがたを焼くための石で災いが叩いたなら、我々はあなたのことを忘れる。我々に地獄の釜の火はまったく及ばない。」

そして、クルアーンを引用する。

「至高なる御方は言う。《不信心を働いた者たちには、行なった事柄に対する災いが彼らを襲って、止むことがない》(雷電31)」

# 不信仰に陥った者たちには、彼らの為したことの故に災いが襲い続け、
-- وَلاَ يَزَالُ الَّذِينَ كَفَرُواْ تُصِيبُهُم بِمَا صَنَعُواْ قَارِعَةٌ (Qr:13-31)


 このように、カーリアという言葉自体は「叩く」ことから離すことはできない。叩きのめされる痛さなのか、心や耳に刺さって離れない音なのか。その辺のヒントを、アッラーズィーの解説が与えてくれる。

アッラーズィーの注釈

 まず、カラアの語義から

「القرع (カラア) とは、強烈で激しくそして依存的に叩くこと。次いで、現世の時間の中の脅威の出来事が「カーリア」の名で呼ばれている。」

 そして、クルアーンから引用する。

「至高なる御方は言う。《だが不信心者たちはかれらの(悪い)行いのために、アッラーの約束が実現するまで災厄が彼らの住まいとその付近に絶えることなく付きまとう》(雷電章31)」

 さらに、「ここから神の奴隷が杖で打たれるとか、鞭だとか、クルアーンにいう災難だとか、扉を叩くことだとかとなどと言われる。彼らが剣で叩きのめしあい、「アルカーリア」とは、復活の名前の一つであるということで一致している。」とする。

 叩かれることによる痛みを伴う語であることには間違いがなさそうだ。最後の日の復活の名前の一つであるという点では一致しているとはいえ、細部については見解に相違があるという。

 アッラーズィーは、それを4つにまとめている

 ⓵ (カーリアという言葉が用いられている)原因は、人間たちが死ぬとき(角笛の)声である。最初の一声で、理性が飛ぶ。《天にいる者も、地にいる者もすべて気絶する》(ズマル68)。そして第2声で、イスラ―フィール以外はすべて絶命する。その後、アッラーはイスラ―フィールも絶命させて、それから生き返らせる。そして第3声が吹かれると、人々が復活する。ハディースでは、その角笛には、死者の数だけ穴が開いていて、一人ひとりが承知済みの穴を持っている。そして、アッラーがその個別の穴から届くひと吹きによってすべての肉体を生き返らせる。このことに確証を与えるのが次の至高なる御方の御言葉である。《かれらがみるものは、一声以外にない》(ヤー・スィーン49)《それはただ一声のみの叫びでしかない》(整列者章19)。 「叩く」とは、つまり死に際し角笛の叫声が叩き込まれるということ

 ② 過ちが大きいものも軽微なものも、世界の破壊の際に激しく震える。その打撃(カルア)のせいで、復活の日が「アルカーリア」の名前で呼ばれている。 「叩く」とは、世界の全滅を引き起こす「打撃」のこと。

 ③ アルカーリアとは、人々(の心)をその怖さと異常さで叩くもののこと。それは、天が、分裂と破裂によって、太陽と月が巻き付けによって、惑星が散乱によって、山々が粉砕と爆破によって、大地が、折りたたまれ、取り換えられることによって叩きのめされることでもある。これは、アルカルビーの主張。 「叩く」とは、世界の終わりを引き起こす行為である。

 ④ それは、アッラーの敵を懲罰と恥辱と見せしめによって叩くこと。それは戦士の主張であり、ムハッキクの中には、カルビーの主張より優位だとする者もいる。《その日、恐れから安全になろう》という至高なる御方の御言葉が根拠である。 「叩く」とは、アッラーの敵を叩くこと。

 「カーリア」という言葉からは、世界が叩きのめされ、心が叩き潰されるときの呻きとでもいうべき音声が聞こえてくるということなのである。  

《アル=カーリア》をどう訳すか 

アル=カーリアは、定冠詞付きの言葉である。最後の日の別名であり、「叩く」という動詞にさかのぼることのできる言葉である。主だった訳語をその章名から見ておこう。

 日本ムスリム協会訳では、「恐れ戦く章」、井筒訳では「戸を叩く音」、中田訳では「大打撃」となっていて、同じ章の名前とは思えないほどばらついている。

章句の訳はどのようになっているのだろうか。

ムスリム協会訳では、「恐れ戦く日(最後の審判)」となっているし、井筒訳では「どんどんと戸を叩く」、中田訳では、「大打撃」という訳がそれぞれあてがわれている。

 「アルカーリア」は、最後の日の別名ではあっても、それ自体が「~の日」を表す言葉ではない。叩くことによって生じる音と無関係ではないが、他でもない最後の日に聞こえてくる音あるいは声である。日本語に定冠詞がないことも手伝って、叙述文には限界がある。その点英訳は、The の存在が生きている。ムハンマド・アサド”The sudden calamity”、ムハンマド・ザフルッラー・ハーンは、“The great calamity”と訳している。ただし、「叩く」という言葉のニュアンスは、伝わってこない。

 さらに、不定名詞として使われていた、雷電章31節において、「カーリア」にどのような訳語が当てられているのかも併せてみておこう。

 協会訳は「災厄が…付きまとう」としている。カーリアを「災厄」としている。井筒訳も訳語が変えられている。「禍いがどこまでも付き纏う」。これに対して、中田訳では、「大打撃(災厄)が襲い止まず」として、「大打撃」という同じ言葉を用いつつもカッコ書きで(災厄)を付け加えている。

 英訳においても、同じ言葉、 calamity が用いられているが、定冠詞は外され、ムハンマド・アサド訳では、複数形が用いられている。

.., sudden calamities will always befall them..

Calamity shall not seize…

 翻訳に正解はないが、《聖典クルアーン》は、他の言語に訳された途端に、聖典であることを止めてしまうことについては納得がいく。「アルカーリア」と聞いた時に、最後の日を思わせるような音が聞こえてくるか、アラビヤ語を多少は知っていて、毎年ラマダーン月には、クルアーンを少なくとも1回は読誦する筆者ではあるが、「アル=カーリア」章の「アルカーリア」から、取り返しのつかない打撃のダメージも戸を万物が壊滅していくときの音も聞こえてはこない。いったい何が伝わったと言えるのか。そうした読みによるイスラームの信仰は、果たしてイスラームの信仰と言えるのか。世界20億人とされるイスラーム教徒、とりわけアラビア語を母語としない15億人程度の信者たちの信仰はいかに。アッラーフ・アアラム。(次号へ続く)。


 脚注

[1] アラジンによる語義:http://www.linca.info/alladinPlus/dic.php?id=23973&cur=239730011&lg=1&md=1

【女冠】{ القَارِعَة } 【1】 [イ教]大災厄、最後の審判の日/* 大いなる災い章(*コーラン第101章) سُورَة القَارِعَةِ

# サムードの民とアードの民は、大いなる災い(=最後の審判)を虚偽と断じた。-- كَذَّبَتْ ثَمُودُ وَعَادٌ بِالْقَارِعَةِ (Qr:69-4)

# 彼の導師は「開扉の章」と「大いなる災い章」[4]を唱えしが、-- فَقَرَأَ الفَاتِحَةَ وَالقَارِعَةَ، (Mq:10-30)

# 大いなる災い[1]。-- الْقَارِعَةُ (Qr:101-1)

# 大いなる災いとは何か。-- مَا الْقَارِعَةُ (Qr:101-2)

# 大いなる災いが何かを、汝に教えるものは何か。-- وَمَا أَدْرَاكَ مَا الْقَارِعَةُ (Qr:101-3)

[2] 井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』69頁以下

参考文献

アッサーブーニー『サフワァッタファースィール』
アッズハーリー『アッタフシールルムニール』
アルクルトゥビー『クルアーン釈義大全』
アッラーズィー『アッタフスィール・アルカビール』

タイトル画像:


By عبدالعزيز علي - Own work, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=128659908


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