「スブハーナッラー سبحان الله」:《聖典クルアーン》「至高者章」第1節によせて
「お陰様で」をアラビア語で言うと?
「アルハムドゥリッラー الحمد لله 」。「すべての称讃は、アッラーのもの」。ほめたたえるべき対象、称賛が向けられるのはアッラーであって、他の何ものでもないという言葉だ。日々生きているのだから、それはいろいろなことが起きる。その一つ一つに対して「ビスミッラー」で始めて「アルハムドゥリッラー」で終わることができれば、何が起きても、たとえひどい目にあったとしても、大抵は受け入れることができて、誰かに責任を転嫁したり、誰かを恨んだり、羨んだり、妬んだり、思い上がったり、また逆に落ち込んだりということも相当程度回避でき、起きてしまったことを受け容れられ、しかも、そのたびにアッラーの存在を確認することができるのだから、どれほど威力のある言葉かと思う。
日本語の「お陰様で」は、この「アルハムドゥリッラー」に高い互換性を持つと個人的には思っているが、ただ、「お陰様」というのは、「陰」だから目には見えないのだけれど、どうしても、相手に対する感謝を意味してしまう。あなたの目には見えないけれど、支援があったのでうまくいきました。ありがとうという形の謝意として受け取られる。私自身は、アッラーに対する感謝、そしてアッラーがたとえば「あなたに」そうさせてくれたことに対する感謝も込めて「お陰様で」を普段使いしているけれど、使っている側にとってはアッラーに対する謝意であることを、受け取り側はまず知らないし、気づくこともできないのではないかと思う。
わかったようでわからない
さて、「アルハムドゥリッラー」ほどではないが、アラブ人ムスリムとの会話でよく出てくる表現がある。
「スブハーナッラー سُبْحَانَ اللهِ 」だ。これもまた、アッラーを称賛する言葉ではある。そうであるならば、「アルハムドゥリッラー」で事足りるはずだが、しかし、「スブハーナッラー」という言い方が、より好まれる場合もあるということだ。
とりあえず、語義を確認しておこう。
「アラジン」は、「スブハーナ」を間投詞として、独立したページを与えている。曰く。「(神に)讃えあれ(*神を讃える特別な表現で、後続の名詞は所有格に置かれる)」。そして、その用例として*神に讃えあれ“سُبْحَانَ اللهِ”と「偉大なるわが神に讃えあれ“سُبْحَانَ رَبِّي العَظِيمِ” とが挙げられている。ちなみに、後者は、礼拝の伏臥礼の際に3回ずつ唱えられる言葉でもある。それはそれとして、とりわけ意味を考えることもなく、礼拝のたびに唱えている。
それに続けてアラジンは、「スブハーナ」で用いる間投句も紹介する。
「 ~ سُبْحَانَ اللهِ وتَعَالَى عَمَّا 」で「神に讃えあれ。そして、~から高くおわしませ」という意味になるとする。
「 سُبْحَانَهُ وَتَعَالَى عَمَّا يَصِفُونَ」
「その御方に讃えあれ。その御方は彼らが思い描くものから、いと高くおわします」
「سُبْحَانَهُ وَتَعَالَى عَمَّا يُشْرِكُونَ 」
「その御方に讃えあれ、その御方は、彼らが同位に配するもの(偶像神)から、いと高くおわします。」(クルアーン10:18、16:1、28-26)
アラジンの母体になっている、「ハンス・ウエア」では、「スブハーナッラー」を “exclamation of surprise, etc.”(驚きなどの感嘆表現)とし、Praise the Lord (神を称えよ)、God be praised (神を讃えよ)という訳語が挙げられている。
なお、「称える」と「讃える」について、「称える」はもともと「天秤に持ち上げて、はかる」という意味であり、「讃える」は、もともと「たすける・すすめる」などの意味で、いずれも現在は「相手をほめる」という意味で使われていて、意味上の違いはないとされる。ただ、漢字「称」は常用漢字ではあるものの、読み方に「たたえる」は常用漢字の読みにはなく、いわゆる「表外読み」。他方、漢字「讃」は、文字自体が常用漢字に含まれていない。よって、公文書などでは、「称える」も「讃える」も「讃える」と書くのがルールになっているという。https://kokugoryokuup.com/tataeru-difference/
「スブハーナ」は、「サバハ سَبَحَ」の動名詞
ここまでの説明では、「スブハーナッラー」も「神を称讃する」言葉のバリエーションの一つだということになってしまう。それでは、あえて「スブハーナッラー」を使う理由が見つからない。そこで、スブハーナ(これ自体は対格をとっていて、対格をとっているからこそ単独で感嘆詞にもなりうる)の主格の形、「スブハーヌン」あるいは「スブハーン」の元の動詞「サバハ」についてみておこう。「アラジン」に曰く。「(神を)讃える、サバハする(*スブハーナッラー(神に称讃あれといって神を讃えること)」。これでは堂々巡りだ。「讃える」とは何なのかがさっぱりわからない。「日本語では、相手のことをほめる」が基本的な意味だとされるので、これを「神をほめたたえる」と言い換えてみたところで、「サバハ」の意味を踏まえたうえでのフレーズの理解にはなっていない。「アルハムドゥリッラー」というときの「称讃」の主体は、それを言う側、つまり人間の側にある。称讃は神にある。人間の側のほめる気持ちをアッラーに示せばよい。ところが、「スブハーナッラー」とは、直訳すれば、「アッラーの称讃を」であり、ではアッラーの称讃の何たるかを知らないことには、あるいは、どうしたら神の称讃になるのかを知らないことには、称賛は空手形のままだ。
ところで、動詞「サバハ」には、目的語を取る形、いわゆる2形動詞としての形がある。「サッバハ سَبَّحَ 」がそれである。「アラジン」ではそれを解説して、「神を讃える、賛美する」を意味し、前置詞「ラーム」を伴って、「~を讃える」という意味になる。「神を讃える」は、「サッバハ」の後に前置詞の「ラーム」をつけて「サッバハリッラーヒ」となる。また、「「スブハーナッラー」と言って神を讃える」という意味もこの「サッバハ」にはある。
そして、その「サッバハ」で始まるのが、至高者章である。
سَبِّحِ اسْمَ رَبِّكَ الأَعْلَى (1)
《あなたの至高なる主の名前を称讃せよ》
しかし、「サッバハ」なり「サバハ」なりの意味は分からない。本節の注釈に尋ねてみよう。
「サッビフ」とは
サーブーニーは、この至高者章第1節の解説において、「サッビフ(「サッバハ」の命令形)」を「ナッズィフ」の語に置き換えている。「ナッザハ」の命令形である。「アラジン」によれば、「ナッザハ」とは、「(物欲を取り払って)浄化する、清らかにする」あるいは前置詞「アン」を伴って、「~を~から無縁であると思う、免れていると思う」を表す他動詞である。あるいは、前置詞の「アン」だけを従えて、「~を(神が)純化する、神聖化する」という用法もある。注釈は以下のとおりである。
أي نزه يا محمد ربك العلي الكبير عن صفات النقص، وعما يقوله الظالمون، مما لا يليق به سبحانه وتعالى من النقائص والقبائح
「つまり、ムハンマドよ、至高にして偉大なるあなたの主は、負の諸属性、そして称賛すべき至高な存在には相応しくないと不義の者たちが言うような、欠落や醜悪とも無縁の存在であるとせよ。」とでも訳すことができそうだ。
ズハイリーも『タフシール・ムニール』の同節の注釈において、同じく「サッビフ」の語を用いている。古典的注釈書の中では、イブン・カスィール(1301年~1373年)に「ナッズィフ」の語は見出すことができないが、クルトゥビー(1184年~1273年)には、タバリー(839年から923年)から伝えられたとして、「ナッズィフ」の語による説明がある[1]。そのタバリーが「サッビフ」の語義として、注釈の冒頭に掲げるのは、「あなたの主を偉大なものとせよ、彼より高くまた偉大な主はいない」とする注釈学者たちの見解である。そして彼らの中には、この節を読んだときには「わが至高なる主に讃えあれ」と言った者たちもいたともしている。「サッビフ」について「ナッズィフ」による言い換えが行なわれているのは、さらに踏み込んだ注釈のなかである。
それは、イブン・アッバースがマグリブ礼拝の中で「{ سَبِّحِ اسْمَ رَبِّكَ الأعلَى } سبحانَ ربيَ الأعلى))」言ったのをアブー・ハミードが聞いたことを受けて、それはいかなる意味なのかという説明の中で「ナッズィフ」が出てくる。
一部の注釈学者たちは、
「これは、ムハンマドよ、あなたの主である至高の神の名前を他の何ものにも命名しないようにという意味である」と解し、別の者たちは、「これは、異教徒がアッラーについて言うことからアッラーを浄めなさいという意味である」と解した。この二つの見解に用いられているのが、「ナッズィフ」という動詞なのである。ちなみに、「サッビフ」を「礼拝せよ」と解する見解も紹介されている。
「サッビフ」の正体
アッラーズィー(1149 or 1150 – 1209)は本節について、タバリーより、イブン・カスィールより、クルトゥビーより多くの紙幅を割いて、注釈を行なっている。そこにはいくつかの問題があるとして、7つの問題について、論じている。その第1が、「あなたの主の名」についてである。そこには2つの主張があるという。一つ目は、「ここで意図されているのは、アッラーの名を浄め神聖化せよという命令だ」というものであり、いま一つは、「「イスム」名前は、繋ぎでしかなく、意図されているのは至高なるアッラー(を他の神々と混淆することなく)浄めよという命令だ」とするものである。」
ここで問題にしたいのは、「サッビフ」の語の代わりに「ナッズィフ」が用いられているということだ。いずれの注釈においても、日本語で「浄め、」の箇所に「ナッズィフ」」が用いられている。つまり、何に「サッビフ」するのかには両説あるとしても、「サッビフ」は、「ナッズィフ」なのである。
「ナッズィフ」は、動詞「ナッザハ」の2人称単数に対する命令形である。「ナッザハ」の動名詞は、「タンズィーフ」という言葉になる。また、ナッザハの元にあたる3語根動詞「ナズハ」は、「無縁である、慎む」などの意味の自動詞であり、それを他動詞にしたのが、「ナッザハ」である。ナズハが「無縁である」ならば、それを他動詞化すれば、「~を無縁とする」となる。つまり、他の神の名、なり、他の神なり、とは無縁の存在だ。さらに「アラジン」によれば、イスラーム教の専門用語としてタンズィーフは、(神の)非人格化、タンズィーフ(神の概念から人間的要素を取り除くこと)であるとしている。一般的な言葉としての意味が、「(物欲を取り去って、清らかにし、浄化し、純化すること)との矛盾はない。アッラーを浄化し、あるいは、他の名前から完全に切り離されていたり、他の神々から、完全に切り離されていたりというのが、どうやら、「ナッズィフ」に言い換えられる「サッビフ」の正体だと言えそうだ。
「スブハーナッラー」と言ってみる
至高者章第1節「サッビヒスマラッビカルアアラー」は、既存の日本語対訳ではどのようになっているのだろうか。井筒訳(『コーラン』下巻、岩波文庫)は、「讃えよ主の御名、いと高き神」としているし、日本ムスリム協会訳(『日亜対訳注解聖クルアーン』)では「至高の御方、あなたの主の御名を讃えなさい。」となっているし、中田訳(『日亜対訳クルアーン』)では、「至高なるお前の主の御名を讃美せよ」とされている。
「讃えよ」にせよ、「讃えなさい」にせよ、「讃美せよ」にせよ、日本語の意味するところはじであるとみてよい。ちなみに、「讃美」とは何かと言えば、「おおいにほめること、偉大なもの、神聖なものとしてほめること」だという。
そうであるならば、開端章の、「すべての称讃はアッラーのもの」に言われる「アルハムドゥ」としての「称讃」と、至高者章第1節の「サッビフ」の訳語としての「称賛」とが、日本語においては、ほとんど同じ意味の言葉として捉えられてしまうことになる。とりあえず称讃するし、称賛されるのだということになってしまう。日本語の訳からこの二つの称讃を区別するのは至難の業だ。となることに鑑みれば両者を日本語で区別することはかなり難しい。
しかしアラビア語の元の言葉にまでさかのぼってみると、むしろ違いが浮かび上がってくる。「アルハムド」としての称讃を、たとえば、サーブーニーは、その注釈の中で、「サナー」に言い換えて説明していた。つまり、「ほめたたえる」という意味のアラビア語に行きつく。他方、サッビフの方のアラビア語は、「他のものと一緒にしない」あるいは「浄化」という意味のアラビア語に行くのである。「他のものと無関係」や「浄化」を「称讃」という語を「称讃」や「讃美」の語でまとめてしまうのは、かなりの無理があると言わざるを得ない。
そうなると、「スブハーナッラー」というときに頭に浮かべておかなければならないのは、アッラーに対する称讃というよりむしろ、他と比べることが意味をなさない圧倒的なアッラーの存在を確認しているということになりそうだ。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] الجامع لأحكام القرآن لإمام القرطبي، جزء العشرون، بيروت: دار إحياء التراث العربي
-ص. 13
[2] جامع البيان في تأويل القرآن لإمام الطبري، مجلدة الثاني عشر، بيروت: دار الكتب ،
1992، العلمية
ص. -542(『タバリーの注釈』第12巻、542頁以下)。
参考文献
Hans Wehr, A Dictionary of Modern Written Arabic, edited by J Milton Cowan, 3rd ed., Spoken Language Services, Inc., New York, 1976
التفسير المنير لالدكتور وهبة الزحيلي، الجزء الثلاثون بيروت: دار الفكر المعاصر، 1991
アッラーズィー『アッタフスィール・アルカビール』至高者章第1節の注釈
タイトル画像:
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