再生への望み(その2):《クルアーン》「星座章」第12節以降をめぐって
手がかりは聖句の中に
塹壕の主たちがどれほどの迫害をしたとしても、《実に、彼の力(懲罰)は、激しさの極み》(星座章第12節)なのだ。彼の懲罰は、彼らが迫害で働いた暴力をはるかに凌駕する。その《彼こそが最初に創造し、そして再び甦らせる》(星座章第13節)。したがって創造はもちろん、再生をも行う、彼すなわちアッラーである。《最善の創造者》としてのアッラーはクルアーンの中に2度登場する[1]が、人間による創造との違いは何か。それを明らかにしているのが、星座章14節以降に示されたアッラーの諸属性である。
「赦し深い御方」
罪深い自分にとっては、とにかくありがたいアッラーのありよう。「赦し深い御方」。ムアタズィラ派ではこれを「悔い改めた者への赦し」と解し、スンナ派では、「悔い改めた者にも悔い改めていない者にも赦し深い」と解する。その根拠となるのが、《本当にアッラーは、(何ものをも)彼に配することを許されない。それ以外のことについては御心に適う者を許される。アッラーに(何ものかを)配する者は、まさに大罪を犯すものである》(婦人章48節)
「愛情深い御方」
日本語の日常生活においても頻繁に用いられる言葉「愛情」。クルアーン的な解説はいかに。「愛情深い御方」多くの注釈者は、「愛する御方」のことであると解する。善こそ求められるべきで、悪はあくまでも付随的なものであり、善が優ることが多いためその結果アッラーの愛情深さが広がる。そのほか、信者に赦しと報酬をもって接する御方」という解釈、アッラーの完全性を信者たちが知ることによって「愛される方」になるという説、「柔和」「従順」とする説もある。
「玉座を持つ御方」
玉座には、比喩的な意味と直接的な意味がある。「玉座を持つ者」とは、大権と主権を持つ者。「彼の玉座が崩れた」と言えば、彼の(王としての)主権が失われたことを意味したという。余談ながら、民主主義においては、国民すべてが玉座を持つ者と建前上はなってしまう。アッラーズィーの時代には考えられないことだったとは思う。そうなると、アッラーが天において創造したとされる極めて偉大で荘厳な玉座という理解が注目されうるが、宇宙をも包むようなサイズにならざるを得ず、これはこれでアッラーのみぞ知る世界ではある。
「栄光ある御方」
これについては、2つの読み方があるという。一つは主格で読んで、アッラーの属性を表すとするもの。「アル=マジド」は、栄光。高貴さと威厳を表し、崇高なるアッラーにのみ相応しいものと解する。これが多数説。いまひとつは、所有格で読んで、玉座に「アル⁼マジード」がかかることになるので、「栄光ある玉座」を意味することになる。《クルアーヌン・マジードゥン》(星座章21節)に見られるように、マジードがアッラー以外のものにも属性を与える例と言える。
「望むことを成し遂げる御方」
この節は、主語が省略されている文章とみるのが妥当。また、「アッラーが望むこと」の中には、信仰はもちろんだが、不信仰も含まれうる。アッラーズィーは、カッファールの見解を引いて、「彼は望むことを成し遂げる」とは、彼が見定めたとおりに行うことを意味する。彼に異議を唱える者はなく、彼を打ち負かす者もいない。彼は友を楽園に入れるが、それを妨げる者はおらず、彼は敵を地獄に入れるが、それを援ける者もいない。また、彼は罪人たちに対して望む限りの猶予を与え、必要であれば報いを与える。あるいは彼が望む場合、罰を急いで与え、また一部のものを現世と来世の双方で罰することもある。彼はこれらのこと、そしてそれ以外の望むことを成し遂げる」[2]と。
5番目の属性「アッラーはお望みのことを何でもやり遂げる」については、決定論、運命論に陥ってしまうかもしれない。しかし、アッラーが何をお望みになっていたのかは、何かの行為を人間が行なった後、もしくは、最後まで分からないということを忘れてはいけない。つまり、何が正解なのかは、最後までわからないのだ。であるからこそ、さまざまな可能性に挑戦していくことができるのだ。その際、アッラー以外に同等の者を配さないこと。これが最低限であり、その上でいかに生きていくのかについては、導きとしてのクルアーンがあり、森羅万象もまた生き方の指針のための探究の対象となる。
よく赦してくださり、愛情も深く、どこにいて何をしようとも玉座から(いや実際には頸動脈より近いところで)見守っていてくれて、最後まであきらめるなと言い続けて下さる存在。そう考えると、これらの諸属性がむしろ、人間自身の人生の再起へ背中を押してくれているように読めるのではなかろうか。
空海の教える密教における再生
現世での再生の一つの可能性として、空海の説いた「密教」のエッセンス[3]が参考になる。
まず自分自身を含め周りを眺めてみる。俗っぽい。今の自分も、周りの人々も、社会も世界も、現実世界も、存在している事物は、すべて「自分」を主張してくる。「実体」だ。うるさいし、汚い、醜い。でもそれは、自分のそわそわした心が映し出した自分の姿。
そこで、いったん、「自分」とか「実体」というものを捨て去ってみる。これ、言うは易し行うは難しだ。自己否定には抵抗勢力が多すぎる。そこで、いやいやそんなものは、最初から存在しないのだよと、意識の原初から変えてみる。自分が素粒子の集まりに過ぎないことを思ってみる。マインドフルネスでも呼吸が大切とされ、呼吸する際の息の動きを意識してみよといった類いのことが言われるけれど、ここでは息の動きへの意識をもやっとした素粒子の集まりあるいは一つ一つの素粒子に預けてしまう。外部との境界も曖昧な素粒子の集まりに解体されたいう感じで素粒子に自分を解体してしまう。そうすると、自分とか実体とかと言った騒々しいもろもろが消え去り、自己否定は瞬間的にでも達成され、「空」つまり、ゼロあるいは空っぽの世界が現前する。
自分や実体に占拠されていた俗世が取り払われたそこに現れるのが、豊かな「空」。あらゆる可能性が潜む「無」の世界。「ある/なし」を超越したところにある「無」の世界だ。
密教では、ひとり一人の中に仏がいると教える。だから自分を大切にせよと。空を極め、無になったところへ現れる「仏の光」。
それを頼りに、自分を取り戻してみる。もうそこには、うるさかった「自分」とか「実体」とかといったものはなく、むしろ、同じ現実が、同じ俗世が、仏の光のなかで生起しなおす。
世界は輝いて見える。曇っていたのは、自分の眼の方、意識の方。その光は自分自身の闇をも照らし、自己肯定感を引き出してくれる。「否定」は「肯定」の母なのだ。こうして自分の周りにあった俗世が、聖なる世界として再生する。
認識論的な立ち位置から見たときの再生はおそらくこのような景色になるのだと思われる。
ラハマに触れる
密教の自己再生の方法になぞらえて、イスラームにおける自己再生の方法を考えてみよう。
こちらは圧倒的な存在論の世界。アッラーが存在それ自体というような世界。特に神秘主義においては、「リンゴがあるのではなく、存在がリンゴする」ということが先鋭的に表れる世界観[4]を有する。
それでも、無になろうとすることは極めて重要だ。イスラームにおいても、現世にまつわるもろもろは、欲望を掻き立て、人を自分自身に対する独裁者に仕立て上げる。
ここで、その役割を担うのが「悪魔」。忌み嫌うべき悪魔だ。したがって、イスラーム的には、この悪魔の囁き、いや、囁きなんてやさしいものではなく、悪魔に魅入られてしまったかのような、選択や行動からいかに自由になるのかが、自分の心を無にするということに通じるはずだ。
悪魔に支配されてしまうと、自分自身というのは、とにかくせわしない(「ナフス・アンマーラ」状態)。あれもやりたい、これもやりたい、あれも欲しい、これも欲しいと。つまり、目に見えるものに心が支配されている状態だ。根拠のない自己肯定感の暴走だ。
ただ、人間、捨てたものではなく、これがゆき過ぎると、今度は、あれもこれもで振り回されていた自分に鉄槌をくらわす自分自身(ナフス・ランワーマ)も出てくる。そうなると、やって来るのは底の知れない後悔であり、自己否定だ。
そして、このせめぎ合いが収まると、自分自身は平安を取り戻す。ムトマインナな心の状態だ[5][6]。
しかし、その平安を取り戻した自分自身でさえ、そこで「心」(カルブ)があること、そして、平安な世界がありそうなことに気づきはするが、そこから先には踏み込まない。
そこから先、あるいは奥は、ルーフの世界。創造の際にアッラーから吹き込まれた霊にあたるもの。ルーフは、天使と言い換えることが可能で、アッラーの命令に一切違反しないことにその振舞いの最大の特徴がある。機会あるごとに指摘することだが、霊はあくまで天から、魂は地面からと覚えてほしい。似て非なるもの。魂は土着性と切り離せない。霊は創造主と切り離せない。
つまり、平安な心のさらに内側(実際の位置関係は神のみぞ知るところだが、模式図的に言うと)にあって、心が平安ならば、霊の光はきれいに広がり、つまりアッラーの命令の通りに、つまりアッラーの御満悦を目指して動くことができるようになるのだ。
こうして、自己は肯定され、アッラーの新たな創造として自らの行動を更新することができるのだ。存在論的にはすべてが加算的な様相で現れるので、以上のようになろうか。
試されるシリア、試される人類社会
シリアのアサド政権が崩壊した。就任当初、民衆とともにシリアの民主化を、少しずつでも推し進めようとしていたバッシャール・アサド。当時ポスターに描かれた哀しげな目線がシリアの行く末を暗示しているようで気にはなっていたが、そんなバッシャールからは想像もつかない、ただ冷酷なだけの風貌の独裁者になり果てたということか。ロシアに脱出した。
ハーフェズ・アサドから2代50年にわたる独裁体制から解放されたと、マスコミは、呆れるほど乱暴なまとめようで、この国の50年を括ってくれるが、父アサドの時代の1993年10月より6年弱をシリア、アレッポに暮らし、2011年に民主化運動が始まってもなお、数年はアレッポを訪れていた私としては、そんな単純な話ではないのだよと憤る。
いろいろな人の顔が浮かぶ、依然としてアレッポに残っている、古い友人たち、お世話になった先生がた、私の記憶の中ではアレッポ城も、スークも健在だ。トルコへ逃れた、古い友人たち、その家族、そしてイスラーム学の先生方。そこには体制派も反体制派もない。民主化が始まったころ、まだ皆、アレッポにいて家の中で体制派と反体制派の立場の違いがあるけれど、国のありようについて、家族で話をしているなんて、そんな時期が懐かしい。
CNNからイスラーム過激派、そして、イラン、ロシア、トルコを巻き込んで内乱状態。始まりは、政治犯を釈放してくれというだけのダラァアの人々の訴えに過ぎなかったのだが、CNNが煽った。エジプトも、リビアも同じだ。結局、ここまでを圧縮してみれば、ゴラン高原どころか、二つの大河の間を帝国的、領域的に支配しようというイスラエル国家の傍若無人に過ぎるエゴが罷り通ってしまった格好でもある。となれば、アメリカも当事者。ジャウラーニーとイスラエルの密約もささやかれる中でのシリア解放である。
バッシャール・アサドはとりあえず去ったものの、現代の塹壕の主たちが、虎視眈々と次を狙っている。塹壕の主たちの来世での行き場は明白だが、そこに至るまでの現世における暴力のエスカレーションは天井知らずだ。むしろ、ここからが正念場だ。
天からの水で大地は甦るとクルアーンは教えていた。しかし、地球全体が異常気象で、天からの水があてにならない。降れば降りすぎ、照れば照りすぎだ。紅海でファラオ(フィルアウン)もろともその軍勢も飲み込んだ「水」、あるいはそれをも凌駕する「津波」という海からの水もある。だからなおさら、甦りの鍵を握る「水」を分け合う人間たちの叡智が試されている。もう涙はいらない。欲しいのは汲めども尽きぬ叡智の泉水だ。
少なくとも4000年の歴史を誇るアレッポ。イスラームを最もよく実践した都市でもある。国外に逃れていた100万単位の人々が戻ってくれば、ムハージル―ンとアンサールの連帯意識、そしてファーラービーの有徳都市を思わせるような共同体意識[7]の復活も期待できる。アレッポのイスラームは、イスラームを現実の中に程よく落とし込んで、人々の助け合いを引き出し、決して原理原則にこだわらないところに最大の特徴があると筆者はみている。必ずやアレッポは再生する。ビイズニッラーヒ・タアーラー。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] 「信者たち章」60節、および「整列者章」125節
[2] 『アッラーズィーの大注釈書』第31巻115頁 https://shamela.ws/book/23635/5968#p1
[3] 武藤郁子『空海と密教 解剖図鑑』(宮坂宥洪監修)124頁以下。
[4] ムハンマド・アッ=タバターイー『現代イスラーム哲学』(黒田壽郎訳)。訳者による解説ではモッラー・サドラを引いて「…存在そのものは、唯一絶対のリアリティー…」と指摘する。243頁以下。
[5] 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』67頁以下。
[6] ナフスについては次の論考も参照のこと
https://note.com/assalaam_action/n/n2e0cf7155416
[7] 奥田敦「都市の力、国家の力―-シリア・アレッポから民衆革命を考える」『アラブ民衆革命を考える』(水谷周編著)、178頁以下。
主要参考文献
アッラーズィーの大注釈書
『空海と密教 解剖図鑑』X-Knowledge
タバターウィー『現代イスラーム哲学』書肆心水
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)
フサイニー師「イスラーム神学50の教理」慶應義塾大学出版会
奥田敦『イスラームの人権』慶應義塾大学出版会
奥田敦「都市の力、国家の力―-シリア・アレッポから民衆革命を考える」『アラブ民衆革命を考える』(水谷周編著)国書刊行会
タイトル画像:
世界で一番安全と言われた場所、アレッポ城城門前広場(2011年9月筆者写す)