アル=カーリアالقارعة の呻き(後編):《クルアーン》「アルカーリア章」をめぐって
現世におけるカーリア
聖典クルアーンの中でカーリアの語が登場するのは、アルカーリア章の冒頭の3回の他は、上述の雷電章31節であった。こちらのカーリアは、最後の日のそれではなく、不信心を働いている者の行為に対する災厄として下されている。
しかも、纏わりついて、止まることがないとされている。
完全な不信心者はいないのと同じで、完全な信者も預言者が封緘されてからは、存在しえない。つまり、大概は、自らの不信心的な行為のせいで、災厄を被っている可能性が高いといえる。
多かれ少なかれ、またその音の大小はあるにしても、カーリアが叩き出したような音声を聞いていることになる。ただ、いつも付き纏ってくるので、そのことすら感じなくなってしまっているかもしれない。見舞われている不幸が、自らの不信心に起因するものだなどと考えつくはずもない。
ズハイリーは、『ムニール』の中で、「アル=カーリアの本質は誰も知り得ないとしている。なぜならば、いかなる理性の持ち主も想像できない苛烈さにその特徴があって、あなたにどれほど能力があっても、あなたの力を上回るのがその本質だからである。そしてそれはあたかも至高なる御方が、現世の災厄は、災厄ではないようであっても、あのアルカーリアと隣り合わせであり、この世の火は、まったく火ではないようであっても、あの世と隣り合わせにある」言っているようなものであるとしている。
つまり、アルカーリアの本質は掴みうるものではないが、かといって、まったくわからないものでもない。この世の災厄にあの世の災厄を感じとり、あるいは、この世の火にあの世の業火を見ることができれば、アルカーリアにも迫ることができるということであろうか。
地獄はどこにある
雷電章31節が教えるところに従えば、不信心を続ける限り、この世で数々の災厄を受け続けることになる。つまり、それを通じて、あの世の大災厄を知ることになる。それにしても、この世で災厄、そしてあの世では大災厄、この世で打撃、あの世では大打撃、この世で叩かれ、あの世では叩かれ潰される。これは耐えられない。だから信じよというのが一つの出口になるが、もう一つの出口は、この世はあの世であり、あの世はこの世であるという観法を身につけること。クルアーンでは、目に見える世界を現象界、目に見えない世界を幽玄界とするが、その言い方を使ったなら、現象界にありながら、幽玄界も見える人間になる。パラレルワールドを同時に生きる生き方をするということである。
イブン・アラビーが、『書簡』にこのことについて図入りで書いている。
双眼を持つことの重要性が存在の一性論とのかかわりで強調されるが、おそらく必要なのは、文字とインクの両方を見るという意味での双眼ではなく、現象界と幽玄界の両方を見る双眼。その双方にまたがって、二つの世界を存在せしめているのがアッラーであるのだとすれば、アッラーを、そして、それが教える真理を見るといっても肉眼ではその徴しか見えないので、アッラーをいや、存在を自己展開する存在を信じることが双眼の獲得につながる。つまり、絶対現象界とは、アッラーの存在を知るとともにアッラーの創造を見ることができる世界である。
真理の在処
その世界の中にいる人には、スィラートゥ・ムスタクィームとその横道にあたるビドゥアについても、見ることができる。ビドゥアは火獄につながっていることになっているが、それは、現世の話である。信仰の正道に導いてくれという開端章の祈り。間違って横道に逸れれば、火獄に落とされるのだけれど、それが現世の話であるとするならば、アル・カーリア(つまり定冠詞付きのカーリア)ではなく、不定名詞カーリアやその複数形カワーリアのレベル。最後の大打撃ではないので、まだ取り返しがつく。いや、生きているかぎり、取り返しのつかないことなどないのだ。
そこに、アッラーとのかかわりのもう一つの側面である「ムラーカバ」、つまり、アッラーが監視していること、を常に意識することができれば、正道を外すこと自体が無くなる。とはいえ、神秘主義の修行者、あるいはその修行の時だけであるならばまだしも、四六時中それが維持されるかどうかは個人差があろう。現世での災厄を不運のせいにして人生を恨むのも一つの方法であろうが、それが地獄の激しさの入り口であることを知れば、自らの不信心を省みて、行動を改めることも可能になる。もちろん、不信心とは、アッラーに対するものなのであって、国家や親や、世の中や、シャリーアに基づく人間の判断に、彼/彼女が不信心であるかどうかを決めることはできない。その意味において、一人ひとりに真理の探究が不可欠なのだ。
『アル=カーリア』の呻きが聞こえるか
「地獄に堕ちるぞ」「地獄に堕ちる」というフレーズは、ムスリムの親が子供を強制しようとするときの常套句だ。ムスリムでなくても「地獄へ堕ちろ」という表現は、日本語の日常会話でも、相手を呪い、口撃のダメを押すときなどによく用いられる。
たとえば、
{وَمَن يَعْصِ ٱللَّهَ وَرَسُولَهُۥ فَإِنَّ لَهُۥ نَارَ جَهَنَّمَ خَٰلِدِينَ فِيهَا أَبَدًا}
《アッラーと彼の御使いに逆らう者。実にそのことの見返りは火獄の火。彼らは永久にその中に入れられる。》(アル・ジン章23)
これに限らないが、そうした章句を念頭に起きつつ、「地獄に堕ちるぞ」などの警告を発しているムスリムがどれほどいるのだろうか。
20億人ともされるムスリムのうちアラビア語を母語とする人々が、5億人弱であるとするならば、それ以外の、15億程度の人々はアラビア語を理解しない。
{الْقَارِعَةُ ، ما القَارِعَةُ }
《アルカーリア、アルカーリアとは何》
何がどこまでわかったら聖典を読み、理解したことになるのか。あるいは、何がどこまで伝わったら、人は自らの行動まで律するようになるのか。「アル=カーリア」が、最後の日の前に、私たちの啓典理解に対して、大きな呻き声をあげてはいないだろうか。アッラーフ・アアラム。
脚注
[1] サーリヤ・ブン・ザニームッディアーリーが遠征先のペルシャで、ペルシャ・トルコ軍との戦いで劣勢に立たされていた際、マディーナのウマルの説教の一部を聞き及んだという史実にちなむ。ヒジュラ暦23年の出来事とされる。その言葉は次の通り。
"يا سارية الجبل، الجبل يا سارية الجبل، الجبل، ظلم من استرعى الذئب الغنم".
サーリヤよ、山だ。山だ、サーリヤ、山だ。山だ。オオカミを引き付けたものが羊に悪事を働いている。
この言葉を聞いて、サーリヤは、それまでいた谷底から山に登り、ものの一時間で勝利した。
https://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%B3%D8%A7%D8%B1%D9%8A%D8%A9_%D8%A8%D9%86_%D8%B2%D9%86%D9%8A%D9%85
タイトルページ画像:
イブン・アラビー https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Ibn_Arabi.jpg