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曼荼羅がつなぐ二つの神秘主義

「いろはにほへと」

「見ることは信じること」、「百聞は一見に如かず」。目で確かめられると、確かにそれって存在するんだと、確信を持てることになる。こんなふうにのんきなことを言っていられたのも、今は昔。バーチャル空間も、フェイクニュースも見える世界に属するが、そこで、見ることは信じることをやってしまうと、取り返しのつかないことに見舞われる。見えること、見ることによって、振り回され、視覚を奪われ、信じるべきものを見失い、あるいは、きわめて見出しがたい状況に置かれてしまう。
しかし、そうだそれに違いないと確信した事柄であったとしても、この世の出来事は所詮、絶えず変化して、嗅覚でも確かめた存在であったとしても、移ろい、やがて散りゆき、消えていく。
この世は無常。ゆえについていくべきは、無常を無常のままに捉え受け容れる心だというのに、「見ることは信じること」に拘ると、目の前で花が散っていたとしても、この厳然たる事実を受け入れられなくなる。

「ちりぬるを」

つまり、目に見えるものは、しばしば人を欺き、場合によっては、目に見えるものによって、人は理解され、統合され、場合によっては特定の意思によってコントロールされているかもしれないのだ。それが悪意であったとするならば、生成AIの発達と社会への急速な実装の浸透は、特定の悪意による支配がもはや夢物語でなくなることを予感させる。
となると、より恐ろしいのは、「見えない世界」のほういうことになりそうだ。見えているものに欺かれ、騙されて、信じていたものに裏切られたことがはっきりしたかと思うと、その背後に見えない大きな悪意。気が付いたときには、そこから逃れることはできない。いや、大きな悪意の中にいることさえ気づけないかもしれない。気づけないどころか、悪意に騙されている者たちが、やがて散りゆき、権勢は必ず終焉を迎えるのだとしても自分たちは善人だと思い込んでいるかもしれない。
となると、見えない世界の何たるかを、いかに理解し、いかに人々と共有し、いかに自らの行為を律していくのか。このことは、洋の東西を問わず、「知」の探究者にとっては、つねに喫緊の課題となる。

空海

突然ではあるが、ここで、約1200年前の中国、当時世界最大の都で、世界の文明の中心、唐の都長安に話を移そう。日本の天皇は、630年から十数年に一度ずつ使節を送っていた。いわゆる遣唐使である。その第18回目の一員として804年に中国に渡り、冬至の最新の文物と最新の仏教理論を持ち帰ってきたのがのちの大宗教者、空海だ。そんな空海が、中国から持ち帰って来たものの一つ、そして、その後の日本の仏教に大きな影響を与えたのが、この絵図、曼荼羅だ。

https://toji.or.jp/mandala/

右と左、二つの絵が並んでいる。左が金剛界、右が胎蔵界を表しているとされる。描かれているのは、無数の仏尊たち。
ややもすれば、こうした画絵を信仰に使っているというだけで「ヤッハラーム」と声を上げるムスリムもいるかもしれない。「絵がある部屋には天使が来ない」というハディースもある。はたして「曼荼羅の仏教徒」は、多神教徒あるいは不信心者なのだろうか。
ここでは、上の2つのマンダラの右側、胎蔵界曼荼羅の中央部を取り上げてみたい。

曼荼羅は何のため?

ここに配されているのは、絵に描かれた仏尊の姿。全部で9尊。中央に位置しているのが「大日如来」そして、それを取り囲む8尊の如来たち。

https://toji.or.jp/mandala/

空海は、この絵を使って、大日如来の発する無限の慈悲と闇をも照らす叡智の光が、いかに世界にいきわたるのかを説明したとされる。仏尊が放射線状に並べられているところからも窺うことができるという。

彼が中国から持ち帰った「密教」は、「特に奥深く、文章で表すことは難しい。そのため図版を借りて悟らない者に開示する」のだと言ったとされる。曼荼羅は、言葉が十分に理解できない、仏教の悟りとも無関係の人々のための、新しい仏教の説明の手段であった。そうして彼は、日本独自の密教理論を確立し、大日如来を教主とする「真言仏教」の開祖となった。
たとえば、大日如来の無限の慈悲にせよ、闇をも照らす叡智の光にせよ、それらは「目に見えない世界」に属する事柄である。しかも、空海が理解したようにわかろうとするならば、梵語と漢語の習熟は不可欠。曼荼羅には、「教え」の説明に際して想像を超える貢献があったはずだ。
こうして「目に見えない」密教の世界、あるいはその入り口が曼荼羅を通じて可視化されているのである。

「コトバ」は手段を選ばない

もう少し踏み込んでみよう。ここにあげたのは9つの仏尊に過ぎないが、空海が開いた「密教」を理解するためには、とにかく重要な仏さまたち。
イスラームとのかかわりを探るべく、この9つの仏尊の名前を意味も踏まえたうえで、アラビア語で表すとどうなるのだろうか。

https://toji.or.jp/mandala/
アラビア語の意味を書き出してみた

アラビア語による表現を書き出してみた。これらの名前は、アッラーの99の美名の中から意味を表していると言いうるものを当ててみた。
アッラーは、たしかに「一」なる存在であって、並び立つものの存在はあり得ないのだが、アッラーには豊かな属性がある。それは99の美名としてもまとめられているのだ。
それらの中に、仏尊の名前を位置づけることができるということは、慈悲慈愛であれ、叡智の光であれ、それらは同じ「コトバ」で表しうるということでもあるのだ。ただ、その「コトバ」を、あくまでも言語(アラビア語には、絵画より以上の対称性と明瞭性が備わっている)によって表現し、伝えようとするのか、画絵の力も借りつつ表現し、伝えようとするかのかに違いに過ぎないのかもしれない。そうだとすれば、仏教徒がハラームな人たちだとは言えないはずだ。

「あさきゆめみしえいもせず」

この「コトバ」は、何をもって体現されるのだろうか?それが、仏教においても、イスラームにおいても神秘主義と総称される宗教的実践の中に見出される。空海からの流れで言えば、真言密教の中に、イスラームにおいては、イスラームの3本の柱の3番目、イフサーンの中に、それらを見出しうることはすでに指摘したとおりである。
密教では、自分を「空」にすることに、イフサーンでは、アッラーに見られていることを意識し続けることが、その「コトバ」の体現の肝となる。そして、そこから生み出されるのが、いずれも利他的な行為となる。仏教的価値観で言えば、「儚い夢を見ることも、酔いに耽ることと」は一切無縁の「仏」状態であり、イスラーム的に言えば、「アッラーの御満悦を求め、人にではなくアッラーに対してよい貸付を行う」「天使的」な状態である。
いかにして仏のようになり、いかにして天使のようになりうるか。
空海は、一人一人の中に仏があるとしたという。その仏にすべてを委ねれば、自分を棄てられる。こうして「空」が達成されれば、欲望と決別できる。イスラームでは、悪魔が人間にとっての明白な敵。その悪魔の囁きから自由になれれば、欲望と決別できる。
そこで、目を閉じて、素粒子の集合体として自分自身を認識し直す。素粒子は、創造者の意図に忠実だ。であるとすれば、まさに天使。人間の心の中の天使たる「ルーフ」は、信者であるなしにかかわらず、すべての人に吹き込まれている。つまり多くの人は気づいていないけれど、天使でも仏でもありうるのだ。
まずは目を閉じて、自分が素粒子の塊であることを意識しなおそう。そして自分自身でいるときには「知」の探究を怠らない。そうすれば、見えるものに振り回されることも、見えないものに脅かされることもなくなっていくはずだ。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

主要参考文献&URL:


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