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「タスビーフ」(神への讃美)は反戦の祈り:聖典クルアーン「至高者章」第1節をめぐって

「讃美せよ」

{سبح اسم ربك الأعلى}
至高なるあなたの主の名前を讃美せよ
(sabbih isma rabbika=l=a'laa 最初の単語の語末の「h」は、下に点。語末の「a」 は長母音)

《クルアーン》「至高者章」第1節

聖典クルアーン「至高者章」の第1節である。冒頭の「サッビフ」は、動詞「サッバハ」の2人称単数に対する命令形。「讃美せよ」と訳されることが多いが、「讃美」とだけしたのでは、実はこの言葉が持っているアッラーの信仰の純度を究極的に高めるというニュアンスが出てこない。「讃美せよ」の代わりに「浄めよ、浄化せよ、純化せよ」と訳すこともできるが、それはそれで的を射ているとは思えない。
さて、この「サッバハ」は、聖典クルアーンの中で、至高者章1節のような命令形のほか、完了形でも、未完了形でも用いられている。「タスビーフ」はその動名詞にあたる。それらの語形変化も含めて、動詞「サッバハ」の変化の全体を網羅する概念が、「タスビーフ」ということになる。

ところで、「サッバハ」をアラジンで引けば「讃美する」とでてくるし、当該箇所の日本語訳も、「讃美せよ、讃えよ、讃えなさい」となっていて、サッビフをナッズィフの語に置き換えて行われる注釈を読むにつけ、サッビフは単なる「讃美」ではないと気づくことができる。さらにいえば、「サッビフ」には、礼拝を行なうという意味に解されることもあり、具体的な動作までをも引き起こす言葉なのだと知れば、「讃美」という訳語の呪縛から逃れられたくなるというものだ。

対象はジハード⁉

聖典クルアーンにおいて「サッバハ」が完了形として用いられているのは、次の節である。

 سَبَّحَ لِلَّهِ مَا فِي ٱلسَّمَٰوَٰتِ وَٱلۡأَرۡضِۖ وَهُوَ ٱلۡعَزِيزُ ٱلۡحَكِيمُ 

سورة الحديد، سورةالحشر، سورة الصف،1「鉄章」「集合章」「戦列章」の第1節

 

この聖句が含まれているのは、鉄章、集合章、戦列章の3章であり、いずれも第1節に降されている。

 そして注目すべきは、諸天と地にある凡てのものがアッラーを純化した。彼は、偉力ならびなき英明なる御方である。つまり、ここに現れてくる彼の属性が、アジーズであり、ハキームだということ。そして、それが完了形で降されているということ。さらに、冒頭の一節で純化された、アッラーからの命令として、アッラーの道のための戦いに、生命と財産を惜しまないことが、これもまた必ず含まれているのだという。

たとえば、鉄章では、第7節に《アッラーとその使徒を信じ、彼があなたがたに継がせられたものの中から、(主の道のために(施しなさい》とし、10節では《どんなわけであなたがたは、アッラーの道のために施さないのか。・・・あなたがたの中、勝利の前に(財を)施し戦闘する者と、あとからそうするものと同じではない。これらのものは(勝利の)あとに施して戦闘する者よりも高位である、だがアッラーは、すべての者に(善)き報償を約束された》」としている

「集合章(59章)」でも、啓典の民の中の不信心な者との戦いが描かれており、「戦列章」では、第2節から《信仰する者よ、あなたがたはどうして(自ら)行なわないことを口にするのか。貴女がたが行なわないことを口にするのは、アッラーがもっとも憎まれるところである。本当にアッラーのお好みになられる者は、堅固な建造物のように、戦列を組んで彼の道のために戦う者たちである。》(戦列章2-4)としている。

人々のジハードへの参加あるいは財産的な支援を促す命令が伴っていることが読み取れる。

完了形と未完了形

ところで、「アラビア語はその時制として終了した行為を表す完了形と終了していない行為を表す未完了形の2つしか持た」ないとされる(ライト『文典』下巻1頁以降)。まさに、砂漠でオアシスを発見したのかしないのか、水が飲めたのか飲めていないのかが重要だというイメージに合致する。語の形を見れば完了形なのか未完了形なのかの判断はできるが、それが「過去なのか現在なのか未来なのかの時制は、言われてはいるものの、本来のそれらの観念には正確に対応しておらず、時制観念に厳格なヨーロッパ諸語とは趣を異にする」とされる。その点に限っては、これもまた時制にあいまいな日本語と共通する点があるかもしれない。結局、「アラビア語での動詞完了形または未完了形がたとえば英語においてはどの時制でもって表現されるべきかを定めるのは文の前後関係を含めた背景からの判断による外ない」のである。

アラビア語の完了時制の用法について、簡単に振り返っておこう。ライトは、次の6つをあげている。

①     過去のある時点で完了した行為:歴史的過去時制、ドイツ語、英語の過去と同じ。
②     対話時点において既に完了しており、かつその完了状態にとどまっている行為。ドイツ語、英語の現在完了。
③ しばしば生じた、もしくは今後しばしば生じるとされる過去の行為。ことわざの表現において共通してみられる。
④     話している現行の瞬間にちょうど完了した行為
⑤     起こることが確実で、すぐに起きたように記述してかまわない行為。これは約束、同盟、売買契約、などに多く用いられ、特に宣言や証言においては否定の不変化詞「ラー」の後にくる。
⑥     望んでいる何事かがなされるように、もしくは起きるように、との意を表す。したがって願望、祈願、呪詛などにはつねに完了形が用いられる。

ライト『アラビア語文典』(後藤三男訳)、下巻2-6頁

動詞の表現からは、ヨーロッパ諸語のような厳密な時制をくみ取ることができないアラビア語を、これもまた時制についてはあいまいな日本語で表現し理解しようというのであるから、解釈の振れ幅は大きくなってしまうようにも思われる。

むしろ自然の驚異

しかも、ここで対象としているテクストは不易不動の聖典の明文である。アッラーの言葉は須らく真理であるという大前提がどうしてもちらつく。それだからこそ、完了形なのか未完了形なのかは、つまり、すでに行われ、あるいは確実に行われるに違いないことなのか、それとも、それが行なわれたとはとても言い切ることができないものなのかの違いを示しているとは考えられる。となると、完了形「サッバハ」が用いられていたその聖句と、未完了形の「ユサッビブなりトゥサッビブあるいは、それらの複数形で表されたそれとを比較対照することは、聖典理解に一定の効果をもたらすことは期待できる。

サッババの未完了形が用いられている明文はどのようになっているのであろうか。

たとえば、御光章。

 
أَلَمْ تَرَ أَنَّ اللَّهَ يُسَبِّحُ لَهُ مَنْ فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَالطَّيْرُ صَافَّاتٍ ۖ كُلٌّ قَدْ عَلِمَ صَلَاتَهُ }
(تَسْبِيحَهُ ۗ وَاللَّهُ عَلِيمٌ بِمَا يَفْعَلُونَ }﴿41

《あなたは、天地の間のすべてのものが、アッラーを讃えるのを見ないのか。羽を拡げて飛ぶ鳥もそうである。みなそれぞれ礼拝と唱念を心得ている。アッラーは彼らの行なっていることを知っておられる。》
 

41 سورة النور  御光章第41節

これに続く聖句には、慈雨の話、自然災害の話、電、昼夜の交代、アッラーの創造、動物の進化などが語られていて、たしかにジハードのために自らの生命と財産を差し出そうといった内容は含まれていない。

シャリーアの律法主義を切り崩す

「合同礼拝章」についても同じことが言える。


(1){يُسَبِّحُ لِلَّهِ مَا فِي السَّمَاوَاتِ وَمَا فِي الْأَرْضِ الْمَلِكِ الْقُدُّوسِ الْعَزِيزِ الْحَكِيمِ}

《天にあり地にある凡てのものは、アッラーを讃える。(彼は)至高の王者、神聖にして偉力ならびなく英明であれれる》 

  「合同礼拝章」第1節 سورة الجمعة (1)

この文章は、「鉄章」「集合章」「戦列章」の第1節と、動詞の時制以外はすべて一致する。

しかし、これを第1節として始まる「合同礼拝章」にもまた、ユダヤ教徒に対する警戒を呼び掛ける一節は含まれるものの、その審判は来世に委ねる格好になっていて、全体としては、啓示の奇跡、アッラーの恩恵、信徒たちの社会の法治と秩序維持、礼拝の大切さを説いていて、ここにも、戦闘にかかわる啓示は見いだせない。

天にあり地にあるすべてのものが、かつてアッラーを讃えていた過去には、戦いが命じられたのだが、天にあり地にあるすべての者が、アッラーを讃えている現在においては、もはや、戦いは命じられていないということなのだ。

曰く:

(يسبح) で始まる章には戦いの言及が一切ない。これは人々に現在および未来において戦いを避けるようにという指示だ。神は賢明であり、過去に行われたことは既に過去のものであり、神が行ったことに対して人々は自由に行動でる。これは、現在と未来において戦いを避け、協力し、より有益なことに集中するようにという指示である。現在形の (يسبح) は現在と未来を示しており、そこには戦いの言及はない。これは人々に戦いを回避し、対話し、理解し合うことの方がより有益であるという指示のようだ。過去は過去である。(يسبح) は彼の私たちへの(戦いの回避の)指示のようなものである。

  「素晴らしきクルアーンの叙述プロジェクト」 مشروع روائع البيان القرآني

まだまだ検証が必要ではあろうが、完了形と未完了形という、語形上明白な違いを軸にシャリーアを再構成する努力は、ややもすれば、時間的な前後関係や、啓示の際の状況などほとんど捨象して、判断者に都合のよい証拠だけを拾い出し、そこから法規を構成するきらいのあるシャリーアの運用に対して一石を投じるものだと言える。そのためには、現在時制、つまり「今、ここ」に生きる者たちが「スブハーナッラー」を単なる讃美以上の意味を込めて唱念することが必ずや求められる。クルアーンの中に「スブハーン」あるいは「スブハーナフ」は44回の登場を数える。アッラーフ・アアラム。

  

参考URL:

https://albayanalqurany.com/clause/%D8%B3%D8%A8%D9%91%D8%AD-%D9%85%D8%A7-%D9%85%D8%B9%D9%86%D9%89-%D9%83%D9%84%D9%85%D8%A9-%D8%A7%D9%84%D8%AA%D8%B3%D8%A8%D9%8A%D8%AD%D8%9F-%D9%88%D9%87%D9%84-%D9%84%D9%87-%D8%A3%D9%86%D9%88%D8%A7/

 団体説明:「ラワーイア・アル=バヤーン・アル=クルアーニー(روائع البيان القرآني)」は、クルアーンの表現と修辞の科学、そしてクルアーンの文章の美しさを広めることを目的としたプロジェクトの名称。本プロジェクトは、私たちのウェブサイト、App Storeのアプリ、YouTubeチャンネル、その他のソーシャルメディアプラットフォームを通じて実施される。

 「私たちの活動を広めることで、このプロジェクトを支援することができる。アッラーが、求道者やクルアーンの読者、またはその一節に思いを巡らせる者にとって、この活動が役立つように願っている。それによって閉ざされた心が開かれ、道を照らす灯火が点されることを願う。そうすれば、アッラーが私たちとあなた方に対して、秤を重くする祝福された祈りを与え、試練の道で私たちを守ってくださる。アッラーの助けを求める。最後に、アッラーへの感謝を捧ぐ。アッラーは万有の主。」

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