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天蓋を切り裂く:《聖典クルアーン》「ターリク章」第1節をめぐって

「ワッサマーイ」

「アッターリク章」の第1節「ワッサマーイ・ワッターリク」。日本語では次のような訳が付けられている。 

「天と、夜訪れるものによって」(協会訳)

「天と夜の訪問者にかけて」(中田訳)

「蒼穹と夜空逝く(いく)星にかけて」(井筒訳)

 最初の言葉「ワッサマーイ」(前置詞のワに冠詞のアリフラームそしてサマーイという名詞サマーの所有格)の訳語については、「天」と「蒼穹」がある。

「天」という語もわかったようでわからないが、「蒼穹」という語は、蒼い空ぐらいにしか解らない(井筒先生、ごめんなさい)。「蒼穹」とは「青空、青く晴れ渡った大空」「蒼天、蒼空」の意だという。ちなみに、「蒼」は「深い青色、草の青々とした色、草木が青々と茂る」などの意味を持ち、「穹」は、「穴、天(大空)」を意味するという。「蒼穹」「青空」の古語的表現で、通常はあまり使用されないが、青空を強調する際に「蒼穹」が用いられる。「青空」が一年中使用されるのに対し、「蒼穹」の「蒼」は「草木が茂ること」でもあり、「蒼」が深い青色を意味するところから「蒼穹」は、夏の青空に対して用いられるのがより相応しいともされる。

 「蒼穹」はどうやら、夏の青空と理解して問題がなさそうであるが、「天」については、それが何なのかは、定めにくい。とにかくその意味が多岐にわたる。「地上を覆う空間」「天地万物の主宰者。万能の神。造物主」「自然に定まった運命」「仏語で天上界など」「キリスト教で神の住む世界」「頂き」「物の上方」「本を立てたとき、上方にくる部分」「児戯の穴一で言う語。玉を穴に入れること」「天ぷらの略」といった具合だ。

 言うまでもなく聖句は、「ワッサマーイ」である。それが翻訳をへたとたんに「天」になり「蒼穹」になる。「天」の意味は多岐にわたるため、「天」をどう理解するのかは、読み手に任されていて、その中の一つに、「蒼穹」つまり、「夏の青空」もありうるということなのであろう。「さまー」と聞けば、「summer」を想起しがちなこの頃の日本語話者にとって、「蒼穹」は悪くないが、これを「夏の青空にかけて」と訳してしまったとすれば、聖典の翻訳だけに、誘導が過ぎるかもしれない。

アラビア語の「サマー」とは

それでは、「サマー」のアラビア語は一体どのような意味の広がりを持つのであろうか。

アラビア語オンライン辞書『アルマアーニー』によれば、まず「地面に対するもの、高空。大地を取り囲む空間」とあり、聖典の中でも、《(かれは)あなたがたのために大地を臥所とし、また大空を天蓋とされ、天から雨を降らせ、あなたがたのために糧として種々の果実を実らせられる方である…》(雌牛章22節)

《かれこそは、あなたがたのために、地上の凡てのものを創られた方であり、更に、天の創造に向かい、7つの天を完成された御方。またかれは凡てのことを熟知される。》(雌牛章29節)。

などと用いられていると紹介する。

次に、「天体」、「すべてのものの上部」「頭上にあり、あなたを覆うすべてのもの」などの意味を持つとする。

さらに、日本語の「天」にはない意味だが、アラビア語の「サマー」には「雲」や「雨」の意味があり、「天の木」と言ったら「中国で育ち、甘いが悪臭を放つ花を咲かす樹木」なのだという。

さらに法学用語として、《(かれは)一層一層に7天を創られる御方》(大権章3節)をはじめ「サマー」には多くの用例がある。

ただ、そこに広がっているのは、 あくまでもアッラーによって創られたものとして捉えられている、屋根がありそうな、閉じた空間としての空なのである。また、ガーシヤ章10節にあるように、柱がないのに持ち上げられていることが驚嘆だとも評されていた。日本語にいうような、「青天井」としての空のイメージとは異なる。

さらに、日本語の意味範囲との違いで注目しておくべきが、アラビア語の「サマー」には、「あの世」的な意味が含まれないということである。また、アッラーの唯一性から考えても、解ることだが、そこには、「天地万物の主宰者。万能の神。造物主」といった意味も含まれない。日本語で「天にかけて」と言われたときに、ついつい、イメージの中に入り込んでしまうかもしれない、これらの意味ではあるが、払拭しておかなければ、「サマー」にはならないのだ。

「ターリク=夜訪れるもの」をどう理解するか 

次は、後段の「ワッターリク」。この言葉も、前置詞の「ワウ」の後に冠詞、そして「ターリク」という名詞が続く。文法通りにこれを読んだのであれば、前置詞の後の言葉は所有格。よって、「ワッターリキ」となるのだが、文末の発音記号は読まない関係から、ワッターリクとなる。ここでもそれを踏襲して、「ターリキ」とはしていない。

その名詞「ターリク」の訳語には、「夜訪れるもの」(協会訳)「夜の訪問者」(中田訳)、「夜空逝く星」(井筒訳)がそれぞれあてられていた。「アッターリク」は、「夜訪れるもの」であるとして、つねにイコールで結んでしまえば、「ターリク」の理解に何の引っ掛かりもないかもしれない。現に、アラジンでは、独立した意味として「夜の訪問者」をあげている。しかし、「ターリク」という語形は、動詞「タラカ」の能動分詞であると同時に、男性の名前としても用いられるという。そのうえ知り合いにターリクさんがいたりすると、「タラカ」する人がなぜ、「夜訪れるもの」になるのかが気になってくる。

動詞「タラカ」は、「ノックする、(戸などを)叩く」。「タラカ」には、もう一系統あって、そちらは、「進む」の意味。本章のターリクは、「ノックする、叩く」の系統であり、もう一つの「タラカ」の系統の派生語として、初学者にお馴染みなのが、タリーク(道)とかタリーカ(手段、あるいは神秘主義教団)の元の動詞である。能動分詞としての用法は、第1の系統にしか確認できない。

井筒は、「ターリク」を「夜空逝く星」と訳出していた。「逝く」とは、多くの場合「人が亡くなる」ことを表すが、「いく」と読む場合には、人の死以外「行く」意味にでも用いられるという。夜空に消えゆく星ということであろうか。そうだとするならば、こちらの「夜」は、動詞「タラカ」から導き出した訳語ではなさそうだ。根拠は、《アッターリクの何たるかをあなたに教えたのは何か》に対する答え。つまり、《アンヌジュムッサーキブ》にある。 

「星が輝く」とはいったい?

 《アンナジュムッサーキブ》とは「輝く星」のこと。「輝く星」がムハンマドに、ターリクの何たるかを知らせるということ、つまり、「ターリク」とはすなわち《アンナジュムッサーキブ》だということになる。現に、『アルマアーニー』では、「ターリク」の語義として「出来事、夜の出来事」に続く第2にこれを挙げる。なお、この「輝く星」は、「聖典クルアーン、第86章(マッカ啓示、全17節)の章名」「夜にやって来る者」さらに、「ターリクは誰?」というのは、「戸を叩く者は誰?」という意味だという語義より先に紹介されているのだ。
となると気になるのが、星を説明している「サーキブ」という形容詞だ。この形容詞も、能動分詞の形をしている。ここでも、その動詞に遡っておこう。『アラジン』によれば、この語の動詞「サカバ」には3つの系統がある。一つ目のサカバは、「穴をあける、穿孔する」という意味。二つめの「サカバ」は、「輝く」という意味。3つ目の「サカバ」は、「妥当である」という意味だ。『ウィキショナリー』の「サカバ」の語源についての記述によれば、「突き通す、貫く」「引き裂く、裂く」「浸透する」の3つが挙げられている。上の3系統は、おそらく第1系統から、徐々に派生して行ったものではないかと考えられる。

したがって、「輝く」というのも「サカバ」から派生した形容詞として「輝く」というのであれば、さらに踏み込んで、突き通すなり、引き裂くなり、浸透するなりしてその結果として輝くという状態に移ったものと考えれば、語源との整合性が取れるというものだ。

アッラーズィーの注釈によれば、星が「サーキブである」と形容されていることにはいくつかの理由があるという。「その光が暗闇を貫くから」あるいは、「星の出現が東から空を貫くように昇るから」、または、「星が現われることで悪魔が見えるようになりそれを貫くか焼き尽くすから」、さらに「その星が他の星々より高く昇るから」(アッラーズィーの引用したファッラーウの見解)という理由が挙げられている[1]が、いずれも、「サーキブ」は、「輝く」ではなく、「貫く」。つまり、上にあげた「サカバ」の語源の意味によってこそ解することができる。ちなみに、アラブでは「鳥が空高く飛ぶことを「貫いた」というとのこと。「輝いた」では用が足りない。

 「貫く星」とは?

このように考えていくと、井筒が、「蒼穹と夜空逝く星にかけて」と訳し、さらに、章名までもそれに合わせる格好で、「明星」としたのも肯ける。つまり、それが「星」である以上、夜にしか現れない。単に「叩く者」であれば、時間は関係がなさそうだが、夜であることが重要なのだ。

サーブーニーは、「ワッターリク」の箇所に、「輝く星」という注釈を付していた。星は、昼間は隠れていて、夜になると現れるとし、注釈学者たちの見解が、「星がターリクと呼ばれたのは、昼隠れていて夜だけ現われるから。夜に訪れてくるものはすべて「ターリク」である」とする[2]。

アッラーズィーは、そのあたりをさらに詳しく解説する。彼は、アッターリクを、星などに言い換えることなく、「ターリクとは、夜に来るもの、つまり星であろうと外の何かであろうと、夜に訪れるものすべてを指す」としている。昼間では「ターリク」とは言えない理由が、ムスリムたちが「夜の訪問者たちの悪からアッラーがお守りくださるように」とドゥアーを行なうことからも、また、預言者が「夜に家庭に来ることを禁じた」と言ったと伝えられていることにも見出すことができるとする。さらに、アラブでは、アッターリクを「幻想」を表すのに用いるのも、それが夜に起きるからだとする[3]。こうして、ターリクは、そして、少なくともクルアーンの解釈上は、「夜訪れるもの」であり、本章においてそれは、「貫く星」なのである。

では、その星がいったい何を指すのかと言えば、星座全般であると言い、プレアデス星団だと言い、土星だと言い(土星はその光で7つの天の層を貫くから)、悪魔を打ち負かす「彗星」だとも言われるという。

さらに、アブー・ターリブが預言者を訪れ、パンとミルクを提供したというハディースの中に、預言者が座って食べている間に、星が落ちて水と火が満ちたという。アブー・ターリブは驚いて「これは何か」と尋ねると、聖預言者は、「これは神の徴であり星が投げられたのです」と答えると、アブー・ターリブは驚嘆し、この聖句が降ろされたとも伝えられる。こうなると、「貫く星」は、そのときの星(隕石?)を指すことになる。

意識を叩く

「輝く星」の部分がどのように訳出されているのかも確認しておこう。「(それは)きらめき輝く星」(協会訳)、「(闇を)貫き輝く星」(中田訳)、「(闇を)突き刺す星の謂い」(井筒訳)となっている。「サカバ」の「貫く」を強く反映しているのが井筒訳、協会訳では「貫く」ことは念頭に置かれておらず、中田訳は折衷的と言えようか。サーキブの語源を知れば、それぞれの対訳の特色が見えてくる。

「サマー」とは何か、「ターリク」とは何か、「ナジュム」とは何か、「サーキブ」とは何か。これら一つ一つに、日本語とのずれがあり、また、一つ一つに様々な解釈があった。「サマー」は、「天」と訳されていたけれど、サマーには、天国や来世、創造主の意味はない。「星」の解釈も実に多岐に及んでいた。

そうした中、井筒訳はほかの二つとは異なる建付けを持っていたが、結局、言葉の原義に最も忠実な訳になっていたようにも思われる。サーブーニーと同じ立場だ。

それにしても、気にかかるのが、「ワッサマーイ・ワッターリク」とアラビア語で唱えたときに、上に述べてきたようなあれやこれやの詰まったイメージを想起できるものなのかということである。

言葉で考えるのではなくコトバを感じろと指摘する向きもあるかもしれない。しかし、コトバで読むためには、言葉による理解がそのベースに必要なのではないか。いや、案外、濃い青空を、そして貫く星を実際に見てみることによって、聖句の音が頭に入っていれば、特別なイメージが湧いてくるのかもしれない。意識を叩いて、その音を聞く。それがコトバの醸成につながるのかもしれない。

いずれにしても、たとえば、2024年8月末に、観測史上まれにみる巨大にして足踏みを続けた台風10号の影響で、数日間、濃い青空も、夜空を突き刺し輝く星も一切見えなかった。空は盛夏の昼間の青空である必要はない。星も、特定の星である必要もない。アラビア語の空だから天井がある。となると、「天蓋とそれを切り裂く星にかけて」という読み方も可能ではなかろうか。そして、「夜訪れるもの」は、その切り裂く星がまさにそうであるように、人間に様々な便益をもたらしてくれるはずのもの。だからこそ、カサムの対象になっているのだ。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

脚注

[1] صفوة العفاسير  للإمام الصابوني
[2] صفوة العفاسير  للإمام الصابوني
[3]  التفسير الكبير للإمام الرازي

タイトル画像:

Special thanks to planetarian_t


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