ウタバしかいないのに(第4回):《クルアーン》ファジュル章14-16節をめぐって
《人間》と訳される《アルインサーン》の「アル」は冠詞
《聖典クルアーン》「ファジュル(暁)章」14節から16節の検討は、後段に入る。15節に降ろされている《さて人間は主が御試みのため、寛大にされ恵みを授けられると、彼は「主は私に寛大であられます」と言う》の中にある《人間》という語の解釈である。前段すなわち「ウタバしかいないのに」の第1回から第3回までは、この《人間》に具体的名宛人がいるという、アッラーズィーの注釈の中に登場するクライシュ族の面々について、ウタバ・ブン・ラビーア( 西暦624年3月13日歿)を中心に検討を行なった[1]。
そこで再び、アッラーズィーの注釈[2]に戻ろう。《人間》とは誰のことなのかという問いである。今一つの答えは、「こうした形容で評される者、つまり、報いの日を否認する不信心者」である。《アルインサーン》を「不信心者」と読み替えているのだ。《アルインサーン》とは、言うまでもなく、「インサーン」に定冠詞「アル」が付されている言葉だ。いや、これはいかにも日本語的な言い方かもしれない。「定冠詞付きのインサーン」と言った方がアラビア語的な感じに近いはずだ。いやいや、それでも不十分だ。なぜならば、定冠詞という言い方自体が、不定冠詞の存在を前提とした言い方だからだ。不定詞名詞はあっても、不定冠詞を持たないアラビア語においては、「冠詞」のみが存在する。したがって「冠詞付きのインサーン」というべきであろうが、他の言語とのかかわりで言えば、アラビア語に不定冠詞はなく、「定冠詞」「アル」のみが冠詞であるとすれば、「定冠詞付きインサーン」とも言いうる。
属指定という冠詞「アル」の用法
さて、この「冠詞」であるが、二つの文字、「アリフ」と「ラーム」から成り立っている。「ラーム」という音節は、「複合指示代名詞(ザーリカ・ティルカなどのこと)、関係代名詞にみられるように、「指示の音節」とされる[3]。また「アリフ」はこの場合、語頭音付加の文字で、発音を軽快にするための接頭である[4]。
このアリフ・ラームは、必ず後置される名詞と接合した形で書かれ、アラブの文法的には、名詞を「定」にし、限定をかける道具とされる。したがって、冠詞には、特定の個体を示す用法がある。既知のラーム、あるいは既知を指定するためのラームと呼ばれる。他方、「アリフラーム」には、「属、すなわち、その名称の冠せられる生物ないし無生物における任意の個体を表すために用いられることもある。属指定のためのアリフラームあるいは、属のラームと呼ばれる[5]。暁章の《アルインサーン》についても、ウタバ・ブン・ラビーアら特定の個人を指しているという読み方が既知指定の用法であり、不信心者全般を指すというのが、属指定のアリフラームの読み方となる。
「私」の主は「私」を厚遇してくれた
属指定であれば、それは、人間全体を指しているのではないかというのが、筆者の素朴な疑問だ。アッラーズィーの2番目の読み方の意味だったのだとするのなら、啓示は《アルインサーン》ではなく、「アルカーフィル(不信心者)」なり、「アルムシュリク(多神教徒)」などとなっていて然るべきなのではなかろうか。しかし、アッラーの御言葉は、あくまでも《アルインサーン》なのだ。それは不動なのだから、動かすべきなのは、解釈の方だ。
もう一度、本文を確認しておこう。
つまり、《アルインサーン》は、《彼の主》が彼を試して、彼を厚遇し、恩恵を満たせば、彼は「私の主は、私をこんなに厚遇してくれた。」と言い、他方、彼を試して糧食を制限すると、彼は「私の主は、こんなに私を冷遇した」と言うというのだ。
最初の《人間》と《彼の主》は、文字通り、アッラーのしもべとして創造された人間(それを受け入れるかどうかは別として)であり、「彼の主」とは、万有の主、全知全能にして慈愛あまねき慈悲ぶかき御方たる「アッラー」のことである。
そして、彼、つまり「人間」を厚遇したり、冷遇したりするのも、その創造主に他ならないのだが、その際「人間」が「私の主は、私を厚遇してくれた」とか「私の主を私を冷遇した」とかと言っているときの「私の主」は、それぞれの人間にとっての主なのであって、アッラーである必要がない。「私の神様は、なんて素晴らしいのだろう、私の神様はなんてつれないのだろう」と、喜びあるいは嘆くときの、「私の主」は、文字通り「私の主」なのであって、属としての人間の主ではない。だからこそ、わざわざ「私の主は云々」という直接話法の形でこの部分が語られているのではないか。
「人間」って弱いよね
人間は、危難に際しては、アッラーに一心に祈る。しかし、その危難が去ったとたんに、偶像崇拝に走る。アッラーは、人間の恩知らずぶりに呆れ、火獄に堕ちる前に束の間の現世を楽しむがよいと仰せになる。たしかにそうだ。
この聖句においても、《アルインサーン》が用いられている。アッサーブーニーの注釈[6]でも、「不信心な人間」となっている。もちろん、最終的に「火獄の仲間」に加えられてしまうという結果だけから見れば、この「アルインサーン」は「不信心者」に違いない。しかし、信者であったとしても、信仰の強さには濃淡がある。
アッラーを強く信じている人や、強く信じているときであれば、あるいは、よくしてもらったときでも、私だけがすごいというふうに浮かれることなく、万有の主に対して感謝し万有の主を称賛したであろうし、たとえ厳しい局面に立たされるようなことがあっても、従うべきものを見失わず、耐え忍ぶこともできるはずだ。
しかし、実際には、信仰心自体を見失うことも起こりうる。となれば、アッラーに対する恨み言の一つも出てきてしまうかもしれない。だからこそ、そんな人間の弱さを十分に自覚し、それでもなお、従うべきものを見失わない。そのために、何をすべきなのか。そのヒントになるのが、「ファジュル(暁)章」の16節以降の聖句である。アッラーフ・アアラム。
脚注
[1]https://note.com/assalaam_action/n/n99f1efc16b57
[2]ファフルッディーン・アッラーズィー『大注釈』(第2版)11巻155頁以下
كتاب تفسير الرازي = مفاتيح الغيب أو التفسير الكبير
https://shamela.ws/book/23635/6008#p1
[3] W.ライト『アラビア語文典』(上) 372頁以下。
[4] W.ライト『アラビア語文典』(上) 374頁以下。
[5] W.ライト『アラビア語文典』(上) 375頁。
[6] صفو التفاسير، لالشيخ محمد علي الصابوني ص. 1062
今回も、お読みいただき、本当に有難うございます。なぜそこなのかと突っ込みたくなるようなわかりにくいテーマに、輪をかけてやたらに長くてわかりにくい文章です。皆様には感謝しかありません。次号も、どうぞお楽しみに。