奈落の底からのスタート⁉:無花果とオリーブ(第4回/全8回)
「スンマ ثم」(そのあとで)という接続詞
さて、第3回では、アッラーによる人間の創造は、ほとんど定訳化している「最も美しい姿」でというよりむしろ、「最良の直立した姿で」とする方が、アラビア語の語義そのもの近いのではないかという問題提起をした。
実は、続く第5節にも大きな引っ掛かりがある。「それから、われらは、彼をいちばん低い者たちに戻した」。直訳するとこんな風になる。
創造の際、「最良の形で直立」させたうえで「それから」戻したのである。それからに当たる接続詞「スンマ」は、並列でも因果関係も含むような前後関係でもなく、接続詞の前の事柄と後ろの事柄との間に時間的な間隔を伴う前後関係を示す。この場合で言えば、まず創造、「そのあとで」戻したというのだ。この「創造した」と「戻した」という行為の主体は「われら」つまり、創造主アッラーである。そして「戻した」のは、種としての人間全般である。
となると、「そのあとで」とは具体的にいつなのかが、気になる。クルアーンの中には、この「スンマ」が「まず現世、そのあとで来世」という意味で用いられている箇所があるため、まず現世に人間を創造した、そしてその後来世で「アスファラ・サーフィリーン」(訳し方については後述するが、ここでは、仮に、和訳の一つで用いられている「奈落」としてみてほしい)に「戻した」となるが、「来世で戻した」ということは、はじめは「奈落」だったのかということになる。「戻した」ということと、「来世」でそれが生じるということが、どうも想起しにくい。「スンマ」を来世にまで引っ張らなくてもよいのではないかと考えられる。
無限定の最上級の使い方
この問題を解く鍵が、「どこに戻したのか」、「何に戻したのか」の理解、つまり「アスファラ・サーフィリーン」の解釈にある。まずは、「サーフィリーン」。この語は、「サーフィル」という言葉の複数形(所有格・目的格)にあたる。「サーフィル」とは「低い」「卑しい」などを意味する形容詞である。アラビア語では形容詞と名詞の境は曖昧で、「低い者」や「卑しい者」も同時に表わすことができる。そして、その形容詞の最上級の形が、「アスファラ」である。つまり、二つ合わせて最も低い者たち、もっとも卑しい者たちなどを表わすことになる。
一見わかったような説明だが、まだ、ここには検討の余地がある。私がもっとも信頼するアラビア語の使い手の一人からの質問に答えておく必要がある。
曰く、「通常、アラビア語の最上級の文章では、母集合を表す言葉には、定冠詞がつくが、この「サーフィリーン」には定冠詞「アル」が付いていない。教科書的な文章とは言えないが、どう解するべきか」と。この場合は、複数名詞の全体が最上級で表れていると捉えられる。よって、卑しい者たち、低い者たちの中でいちばん低いもの、卑しいものではなく、「最も低い者」たち、「最も卑しい者たち」となる。彼は納得してくれた。アルハムドゥリッラー。
日本語の対訳を確認しておく
ここまで確認したところで、ここでも既存の日本語訳を見ておこう。
たとえば、イスラーム学者、中田考による監訳では、《それから、われらは彼を低い者たちのうちでも最も低い者に戻した》としている。サーフィリーンの前に定冠詞がないことは気にせず通常の最上級の訳文になっている。
また、わが師の師、井筒俊彦の臨場感にあふれ作品としていまだ色あせない翻訳によれば、《やがてそれをば下の下に戻す》としている。これもまた定冠詞がないことは気に留めていない。
日本人信者たちが読んでいると思われる、日本ムスリム協会の対訳では、《それからわれは、かれを最も低く下げた》となっている。定冠詞がないことに配慮がなされた訳になっているが、「戻した」が「下げた」となっていて、原文のニュアンスから遠ざかっているように思われる。
それは奈落の底⁉
これに対して、現代のムスリム注釈学者による注釈はどうなっているのであろうか。最小限に古典的な根拠を示しつつ現代的な解釈も盛り込んだ、アリー・サーブーニーの注釈書では、「それからわれらは彼の位階を最下位(アスファラサーフィリーン)に下げた」としている。この注釈では、戻したものが「位階」とされている。なぜなのかと言えば、「創造した際に彼に課した要請を行なわず、もっとも美しい姿で創造したという恩恵に感謝することもない。しかも、彼だけに特別に授けた長所をわれらに対する服従に用いることもしない」からだと言う。したがって、「卑しさの底、すなわち火獄へ戻すことであろうよ」としているのだ。こうなってしまうと、「もっとも低い者たち」なのか、「低い者たちの中でいちばん低い者」なのかは、それほど気にしなくてもよいのかもしれない。宗教的な火獄の懲罰を背景にした脅迫のメッセージとしては、何にしても最上級は好まれるのであろうから。
さらに、サーブーニーは、地獄の底に落とすという読み方を推しているようで、アスファラ・サーフィリーンの語釈として、初期のころの注釈から、「火獄の底のいちばん低い場所(奈落の底)」を紹介している。
さらに、同じく初期のころから言われている「老獪に戻した」つまり、青年期が過ぎやがて耄碌し、すっかり弱くなってしまった状態」を指すという注釈も紹介している。そして、アンダルスの文法学者の注釈から「文脈からただちに浮かぶのは、最後の審判の日の不信心者の状態の指摘である。最も美しく驚異に満ちていた姿のなれの果てとしてのどうにも醜悪な絵である」とさえしている。
たとえ「地獄へ堕ちろ」と脅されたとしても
啓示と理性のバランスを重視する14世紀の注釈学者、アッラーズィーは、それが「老衰、老齢状態を指している」としつつも、来世で火獄のいちばん低い場所に戻されることの可能性にも言及している。
将来生じること、地獄に至っては生じるかどうかさえ不確定的な事柄に「戻った」とはいったい何なのか。第5節にかんする私の違和感の正体である。どこに戻るにしても、何に戻るにしても、ムスリム注釈学者たちの見解によれば、それは、耄碌状態であり、あるいは奈落の底であった。これらは、対訳ではなく、注釈であるため、具体的な読み方がわかるというものだが、老齢に達するにせよ、地獄に落とされるにせよ、「戻した」こととはつながらない。もしそうであるならば、人間は老齢から創造され、地獄から生まれてきたことになってしまうからである。「アスファラ・サーフィリーン」をどうとらえたら、しっくりとくるのだろうか。非常によく知られた本節ではあるが、その解釈には、実は想像力をはばたかせる必要がありそうだ。
(加筆修正版)