ゲームは自由への誘い
こんにちは。共同代表のなおきです。
みなさんはアナログゲームをしたことがありますか?
アナログゲームといえばコンピューターを使わないゲーム全般の事ですが、それってめちゃくちゃ広いですよね。
ボードゲーム、カードゲーム、鬼ごっこやケイドロのような身体を使った遊び、いっせーのーで、指相撲のような座ってでも出来る系のゲームなど本当に多岐にわたります。
ちなみに、ケイドロは地域によって名称が異なるそうですよ。こんな調査を見つけました。そんなにあったんだと改めて驚きました😅
閑話休題
みなさんはアナログゲームから何か学びましたか?
僕は幼少期から電子機器の使用が家庭の事情で禁止されていたので、遊びといえばもっぱらアナログゲームだけでした。
それこそ、トランプや花札をはじめとするカードゲーム、モノポリーやカタン、スコットランドヤード等のボードゲーム、けん玉、メンコ、コマなどの昔ながらの遊びをしてきました。
そういうアナログゲームの大きな特徴の一つは、一緒に遊ぶ人が居ないと面白くない事です。
もちろん1人で遊べない訳ではないですし、ゲームによっては1人でしか遊べないものもありますが、基本的に誰かと一緒にやることが前提の遊びばかりです。
孤独、孤立、孤食…
このコロナ渦において、僕たちの生活様式は”孤”が本当に多くなりました。
いや、正確には、コロナ前から抱えていた問題が可視化されたという方が妥当でしょう。
そんな時代だからこそゲームは”孤”から脱するよい仕掛けになると思うんです。
時には喧嘩をすることもありますが、ゲームは楽しい時間を共有する手段になると確信しています。
多分コンピューターゲームもその手段になるとは思います。
ただ僕自身はコンピューターゲームをしないので、その部分については語れません…
想像の範囲と周囲のコンピューターゲームをする友人を見ているときっと可能だと思います。
そしてそれもまた #ゲームで学んだこと でしょう。
ただ、敢えてここではアナログゲームの話しをさせてください。
さてもう一つ。
ここまでお読みになった方はもうお気づきかもしれませんが、僕はこの記事の中で”ゲーム”と”遊び”という言葉を使い分けてきました。
ゲームと遊びの違いですが、基本的にあそびの一種にゲームがあると思っています。
でもあそびの方がもう少し自由な感じがします。
ゲームとは、あそびの中にルールという共通概念を共有して、それを軸に遊んでいくことを指します。
それはルールという制約を設けるということを意味しますが、実はこれが自由にあそぶ事に繋がってるのだと僕は思っています。
スポーツもそうですが、最低限守るべきことを共有して、その中で自分たちは何をすれば勝てるのか(勝利条件を満たすことが出来るのか)を考えます。
最近、小学生に白紙とペンを渡してこれであそんで良いですよと言ってもなかなかあそべないという話しを聞いたことある人は多いかもしれませんが、そこに「好きなものを書いてください」「今朝食べたものを食べてください」などと声がけをするとこどもたちは書き始めることが出来ます。そして、かれらは彼らのみえた世界を自由に書いてくれます。
これをアソボロジーではファシリテーションと呼んでいます。
今の社会や教育現場では自由にとか多様性とかを語る上で、誘導をしないためにファシリテーションまでも放棄してしまっているように感じます。
残念ながら、自由は不自由の中にしか生まれないと僕は思っています。
そして、まさに「あそびはルールという制約の中でどれだけあそび=隙間をみつけてそれを制約の中で自由あそぶか」だと思います。
戦略、交渉、駆け引き、独自ルールなどを通して、ゲームの中にある制約の中で最大限出来ることを見つけていきます。さらにはゲームの枠組みを他に使えないかも考えます。トランプはとても良い例だと思います。1〜13までの数字が4つのマークなって52枚のデッキになっていますが、そのデッキを使って様々な遊びが作り出されています。
社会に出れば、多くの事柄や課題は様々な制約にがんじがらめになっています。その中で何が出来るのかを自由に発想し、実行、最適化していく事で、新たなモノ、コトを生みだしてくことが出来ます。
つまりゲームで学ぶことは如何にして自由になるかだと僕は思っています。
ゲームは僕たちを自由にしてくれるそんな存在なのではないでしょうか?
アソボロジーでのあそびもそんな「仕掛け」にして行きたいとおもっています。
共同代表なおき
#ゲームで学んだこと #アソボロジー #アナログゲーム #あそび #教育 #ゲーミフィケーション #GBL #ゲームベースドラーニング
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