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ChatGPTと考える:義務教育について


はじめに

本題に入る前に、近年の生成AIの進歩に対して驚愕した話をさせていただきたい。皆さんお馴染み「ChatGPT」についてだ。2022年11月30日、初公開された当初から全世界を震撼させ、今ではビジネス・教育・研究といったあらゆる分野で活躍している。しかし、当時は最新の情報を取り扱えないといった一定の縛りが設けられており、私のような一般人から見れば「めっちゃ頭が良くなったSiri」くらいのイメージで留まっていた。
時が経ち2025年現在、清水亮氏の著作『教養としての生成AI』を本屋で立ち読みし、久しぶりにChatGPTを開いてみた。

生成AI活用のエッセンス

衝撃的だった。
たった3年弱でここまで進化してしまったのか。

難解な論文を分かりやすく要約してくれることに加え、最新ニュースの要約まで行えるようになっていた。ここでは一例として「第2次トランプ政権発足に関するニュースの要約」をお願いしてみた。以下、ChatGPTが提示した内容を載せる。

このように、インターネット上に点在している様々なニュース記事を引用し、重要なポイントを3~4行程度の文章で要約してくれる。また、察しの良い方はもうお気づきかと思うが、本記事の見出しに使用した画像はDALL-E3で生成したものである。ここまで進化されるともはや恐怖だ。日常会話・翻訳・要約・画像生成、AIもここまでハイレベルなツールになったのかと、将来への期待と不安が50:50の複雑な心境になった。

「思考の拡張ツール」としての生成AI

本屋を出て帰宅した私はあることを思い出した。それは、IT系のビジネスマンたちが、ChatGPTをビジネスパートナーとして日常的に活用しているというテレビの特集である。企画を考える、プログラムを作成するといった仕事において、いつでも気軽に相談できる頼もしい存在であるという。

そこで私は、noteの記事を書く上での「思考の拡張ツール」としてChatGPTが活用できると考えた。自分の中にある疑問や不満等を現在の語彙力だけで表現しようとすると、どうしてももどかしさを感じてしまう。本記事はこのような抽象的な想いを、ChatGPTに頼ることで言語化してもらい、より高度な議論かつ良質な結論を導き出すことを目的とする。

本題 ~これからの義務教育を考える~

今回のテーマは「教育」だ。
日本人ならほぼ全員が当たり前に通ってきた「義務教育」について、私が普段思っているいくつかの疑問をもとに議論を進めていく。

義務教育に対する疑問は大きく3つある。

1.なぜ全員が同じ科目を学ばされるのか

2.なぜ集団行動が最重要視されるのか

3.なぜ100点満点の試験でしか能力を測られないのか

義務教育では、クラス全員が決められた科目の授業を決められた時間に受ける。そして全員が「先生」と呼ばれる公務員の話を数十分黙って聞くことが望ましいとされている。授業がどんなにつまらなくても、指名されるもしくはお手洗いに行くことを除き、一瞬たりともその場から動くことを許されない。ただ黙って、言われた通りに黒板(もしくはホワイトボード)に「先生」が書いた文字をノートに写す。そして授業が終わると「家に帰ったら必ず復習するように。」と言われる。その授業がどんなにつまらなくても、これをやらなければ後の試験に影響が出る。そしてクラス30~40人ほどの無作為に集められた人間が同じ内容を習い、同じ内容のテストを受けることになる。

しかし、結果だけは同じにならない。
ある人は「つまらない。」という理由でやらず、ある人は「やらなきゃいけないんだ。」と信じて必死に勉強する、こうして100点満点に近い者と遠い者で分かれる。
冷静に考えれば、自分にとって何の興味もない、頑張る理由が分からないものを頑張って覚えるなんて、これほど馬鹿馬鹿しい話はない。「これ将来何の役に立つんだよ!」という同級生たちの愚痴を耳に胼胝ができるほど聞いてきた。しかし、現実は毎日のように、学問の「自由」のもと義務教育が行われているのだ。

全然リベラルじゃないリベラル教育の弊害

お分かりいただけただろうか。
自由民主主義(リベラルデモクラシー)国家に生きている我々の教育システムは、全然リベラルなものではない。「友達100人できるかな」を始めとした集団意識の刷り込みによる同調圧力の助長、100点満点のテストでのみ行われる能力の評価、成長期の最も個性を育むことが出来る時期に「個」ではなく「集団」を尊重する教育、これらがいったいどれだけの子供たちを不幸にしたのだろうか。

文部科学省が令和6年に公表した『令和5年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果及びこれを踏まえた対応の充実について』では、令和5年度、小・中学校の不登校児童生徒数は11年連続で増加し約34万6千人、そのうち90日以上欠席している生徒が約6万7千人と過去最多となったという調査結果が出ている。私は、これを現代教育システムの弊害の1つと考えている。

「学問の自由」と謳いながらその中身は「強制」の連続であり、全くもって自由ではない。この「学問の強制」とも言える、現代の「個」が尊重されない自由民主主義をどうすれば変えられるのか、どの問題から変えていけばよいのか、これらをChatGPTと共に考えていこうと思う。

ChatGPTによる教育改革案および対策

私はChatGPTに対して次のような質問を投げかけた。

AIへの質問

私の質問は非常に雑で読みにくい文章であり、怒りを含んでいるため荒っぽいのは重々承知している。しかし、ChatGPTがはじき出した答えは次の通りである。

対策1
対策2,3
対策4,5
対策6,7

ものの見事に私の主張を汲み取ってくれている。その上で学校教育の問題点を短い文章でまとめてくれた。
ここからはChatGPTによる7つの対策を順番に考えようと思う。

①教育の目的の再定義
②多様な評価基準の導入
③教員の育成とサポート
④カリキュラムの柔軟化
⑤自己決定権の拡大
⑥「失敗」を肯定する文化の醸成
⑦親と地域社会の役割

対策① 教育の目的の再定義

まずは①ついて、「社会に適応できる労働者を育成する」という目的から「個人の可能性を最大限に引き出す場」と再定義する必要があると語っているが、本当にその通りだ。
日本の教育は「実社会で常に集団を尊重して動くことが出来るか」を求められ、「個」に自我があると煙たがられる傾向がある。つまり、「空気を読め。」と言われてしまうのだ。

人手不足により倒産に追い込まれる企業が後を絶たない。「即戦力」となる人材を全企業が欲している。だからこそ今の教育システムがよりプッシュされそうな嫌な予感がしている。一方で、令和の時代は若者を中心に多様なビジネスモデルが創造されており、既存の教育および社会システムに疑問を持ち、自分らしい生き方を貫く姿勢を大事にする考え方が主流になりつつある。これを社会全体で後押しするためには、今一度教育の再定義が必要であると考えられる。

対策② 多様な評価基準の導入

肌感覚で理解していただけると思うが、試験のために覚えたことのほとんどは大人になると忘れている。理由は簡単、「試験のために」覚えただけの知識だからだ。はっきり言わせてもらうが、そんな知識には何の価値もない。真に価値ある知識とは世界や個人に影響を与えるものであり、学校教員に「良く出来ました。」と言ってもらうための知識は「紙屑」同然である。

そもそも、全員が同じレベルの問題を一斉に解いて満点に近い順にランキング付けするという評価方法は、こと「教育」という分野においてはあまりに欠陥だらけではないだろうか。この方法は一見、どれだけ社会で役に立つ人材になるかを数値化しているように思えるがそうではない。試験の本質は、

「如何に自分の個性を封じて、他人の言うことを素直に聞けるか選手権」

である。あくまでもこれは、現在の私の仮説である。どれだけ「先生」の言う通りにできるか、会社で言えばどれだけ上司の指示を言われた通りにこなせるか、試験はこの能力を測ることしかできていないのではないだろうか。これも「教育の目的」同様、再定義が必要だと考えられる。

先ほど①でChatGPTが述べてくれたような「個人の可能性を最大限に引き出す場」にするには、②多様な評価基準の導入が不可欠である。アートやスポーツなど、机の上では測れない能力にもっと目を向けるべきだ。

対策③ 教員の育成とサポート

まず、ChatGPTが③で述べてくれた「教員は、子どもの多様な個性を引き出す重要な役割を担います。」という部分に着目する。
突然だが皆さん、「ガチャ」はお好きだろうか。
近年、スマホで出来るソーシャルゲーム(ソシャゲ)の急速な普及により、現代の若者はランダムな事象に対して「○○ガチャ」と例えることが多くなっている。親ガチャ・配属先ガチャなど、自分ではどうしようもない「運ゲー」で人生が決められているという、ある種の皮肉と諦めが込められた言葉であると考えられる。このことから分かるように、教員も生徒目線では完全ランダムな「先生ガチャ」である。授業が面白い先生もいれば、教科書通りのことしか言わずつまらない先生もいる。個性を引き出す重要な役割のはずなのに、なぜこのような差が生まれてしまうのか。
基本的に先生側の立場に立ったことがない人間が多数派なため、つい生徒視点のみで「あの先生は好きだったな。」、「あの先生嫌いだったな。」という話になりがちだ。しかし、ここはあくまでも「教員の育成とサポート」であるため、先生側の味方になって考えようと思う。

そもそも学校教師にはどうしたらなれるのか。以下、進学情報サイト「スタディサプリ」より引用した文章を掲載する。

学校の教師になるには、教員養成課程をもつ短大・大学などで学んで教員免許状を取得し、教員採用試験に合格して採用されることが必要。

公立学校であれば、都道府県や政令指定都市の教育委員会が行う教員採用試験に合格して採用されることが必要だ。

私立学校であれば各学校が行う採用試験に合格して採用されるという流れになる。

なるほど、つまり生徒と同じく、「試験」を受けて点数の高かった者から順に教師になる資格が与えられる仕組みというわけだ。

そりゃあ眠たい授業しか出来ないよね・・・( ;∀;)

要するに、先生方も生徒と同じ苦しみを乗り越えて教員免許を取得しているのだ。生徒と同じく「勉強のみ」で評価されていると言ってよいだろう。そして試験に合格した後は各配属先の学校のカリキュラムに従い、授業・生徒指導・部活動と多忙な毎日を送ることになる。令和6年度(令和5年度実施)の公立学校教員採用選考試験の競争率(採用倍率)が、小中高いずれも過去最低だったのも、このような背景を知ると納得できる。
この問題を解決するためには、先生も生徒も「1人の人間である」ことの再認識が必要だと考える。せっかく大人と子供が交流する機会が毎日のように与えられているのだから、そこをもっと有効活用出来るように努めるべきだ。正直な話、現状の先生・学生の関係は、ロボット(あるいはタブレット)・学生の関係になっても大差ないように思える。特にキャラクター性が無くても給料が貰える先生と、特に個性を出さなくても一定の点数さえ取れれば社会に出れる生徒、教育現場はこの状況に危機感を持って早急に対応しなければならないはずだ。そのためにも、先生の個性を引き出すべく「多様な評価基準の導入」を教育実習などの研修にも取り入れるべきだと言えるだろう。

対策④ カリキュラムの柔軟化

さて、ここからはカリキュラムについて考える。
私が序盤で提示した、義務教育への3つの疑問のうち1つ目、「1.なぜ全員が同じ科目を学ばされるのか」、これを解決するヒントになり得るのが④である。ChatGPTによる解決策は、「地域や学校ごとに特色を持たせること」、「選択科目を増やすこと」の2つだ。時間割を学校側で決めて固定化するのではなく、生徒自身が自分の興味もしくは目標に応じた選択ができる環境づくりをしていくべきだと述べている。
私もほぼ同意見だ。私は小学校も大学のように自分で時間割を作らせればいいと考えている。しかし、大学のように一定単位を取らなければ卒業できないという仕組みにするのではなく、授業を受けたい時間だけ受けられるようにするのだ。算数が大好きな子がいれば国語が大好きな子もいる。一方で、国語の授業は受けたくないけど読書は好きという子もいるはずだ。「多様性」という言葉が流行しているくせに教育は一向に多様化しない。今こそ思い切って「国語・算数・理科・社会の時間割」を無くすべきだ。
人間は目標があれば誰に言われるでもなく勝手に動く、好きなものが近くにあれば勝手にその近くに行く、それを大人が理解できないはずがないのだから、子供たちのために大規模なシステム改革を行ってほしい。まずは「カリキュラムの固定化の撤廃」、算数大好き君が好きなだけ算数を学ぶことが出来る社会は、技術の発展した今なら必ず実現できる。

対策⑤ 自己決定権の拡大

本案は④の内容と重なる部分が多くなるため、ここでは④をもう少し深堀する形で考えてみようと思う。
前述した通り、カリキュラムの固定化を撤廃することで、教育を多様化させることが出来るはずだ。ChatGPTより、「一定の科目の中から選択できる自由、そして探究学習により自ら課題を設定し解決する機会を増やすことで主体的な学びを促進させる。」、この意見自体は非常に良い。しかし、私は「自己決定権の拡大」というタイトルに疑問が残る。

そもそも義務教育に「自己決定権」はあったのか?

日本は教師たちが予め設置したレールの上をちゃんと走るように教育する。自分でレールを敷くことは許されない。分岐点のレバーも自分で動かせない。出来ることはただ道筋に従って脱線しないように走ることのみ。義務教育を終えたら高校に入学し、高校で数学や物理・化学などを学びたいと思ったらそこで道は1本になる。理系の大学に進み、理系の企業に就職することだけを勧められるのだ。美しいほどの1本道、今日の日本ではこのように決められた1本道を言う通りに進むことが「普通の人間」であるとされている。よくこんなシステムを続けて「多様性」やら「SDGs」などという言葉を流行らせたものだ。「持続可能」とは決められたレールの上に次世代の電車を置いて言う通りに走らせるだけの「作業」を受け継ぐことか?そんなわけがないだろう。新たなイノベーションを起こし続けアップデートし続ける、それが出来る人間を育て続けることで「持続可能な社会」が実現するのではないのか。そのためには義務教育の段階から「自由な発想が許された」環境を作る必要がある。そうすることであらゆる考え方を尊重することができ、これが結果的に主体性のある学びに繋がる。これが本来の教育の正しい在り方ではないだろうか。
抜本的な改革が直ぐに出来ないなら、簡単なコミュニケーションから始めればいい。例えば、生徒同士のみではなく教師も交えて、自由なテーマでディスカッションする時間を設ける。世代間ギャップと育った環境による考え方の違い、これは先生・生徒双方にとって刺激になるはずだ。

対策⑥ 「失敗」を肯定する文化の醸成

先ほど私は、日本の学校教育を1本道のレールで例えた。列車は決してバック走行しない。そして脱輪が許されない。学生たちはこのような「後退」や「失敗」が許されずらい環境で学校生活を過ごす。

「今回の試験で高得点を取らなきゃ、またバカにされる。」

「親に怒られる。」

「良い学校に行けなくなる。」

人間それぞれ個性があり、得意不得意があるのは誰でも理解できるはずなのに、何故か義務教育を受け始めてからは「テストの得点」「偏差値」で人間性を判断するようになってしまう。普段はその人の趣味や言葉遣いなど、多角的な視点で判断するのに、学校に入ると突然、テストの点数がその人のあらゆるステータスを表しているという集団催眠にかかる。テストで低い点数を取ると様々なエクスキューズがつけられるが、単にその科目に興味が無いから頑張れなかったというだけの理由のはずだ。それなのに強制的に頑張れと言われ、点数がとれなかったら「失敗」と括り、何故勉強しなかったのか問い詰められる。それが続くと「もう後がないぞ。」と先生に脅される。10代もしくはそれにも満たない年齢なのに「良い人生を送れるように今から頑張るんだよ。」と説得される。どう考えても何かおかしい。まるで今勉強で失敗したらお先真っ暗だと断言されているような、自分の人生を他人に決められているような感覚、机に強制的に縛り付けといてよく言えたものだ。では、何故ここまで失敗に寛容になれないのか。我々はいつからこうなってしまったのか。私の知識では考えをまとめるのが困難であったため、ここでもう一度ChatGPTに質問してみた。

⑥に関する質問、私の仮説

すると以下の7つの要因が挙げられた。

1.歴史的要因:儒教的価値観
儒教に由来する「和を重んじる」「規律を守る」といった価値観が深く根付いており、この価値観の下では、個人の失敗が「集団全体に迷惑をかける」と捉えられやすい。

2.試験重視の教育制度
教育における競争型の試験システムが、失敗を過剰に重大視させている。特定のタイミング(中学受験、高校受験、大学受験など)の結果に大きく依存し、その一度の失敗が将来に影響を及ぼすような仕組みになっているため、失敗が許される余地が狭まっている。

3.年功序列と終身雇用の文化
失敗がキャリア全体に悪影響を及ぼすと認識されており、一度の失敗が「評価を損なう」リスクを生むため、失敗を避ける行動が合理化されたと考えられる。

4.恥の文化
他者からの評価や周囲との調和を重視する「恥の文化」、この文化では、失敗は個人・家族・組織に影響を及ぼすものとみなされることが多い。そのため、失敗が心理的負担として大きくのしかかる傾向がある。

5.過剰な完璧主義
高品質や精密さを重視する傾向があり、これが「完璧であること」を期待する文化を助長していると考えられる。これが失敗への寛容さを低下させ、挑戦を控える心理を生む一因となっている。

6.メディアや社会的圧力
メディアやSNSによる批判の拡散、一度のミスが大きく取り上げられ個人が不必要に責められる風潮、これらが失敗を恐れる文化を強化しているのではないか。

7.リカバリーシステムの欠如
一度の失敗を挽回するための「セーフティーネット」や再挑戦の機会が非常に少ないため、失敗のリスクが過大に感じられるのではないか。

実に的を得た回答である。2番のように、私と意見が概ね一致した箇所もあれば、SNSの問題を絡めた切り口も提示してくれている。こうして分析してみると、日本人は「個」の意志をまるで共有財産と考えている節があるようにも思えてくる。ここで1つ思い出すのが、義務教育時代に散々先生に言われた「連帯責任」という言葉だ。1人のミスはみんなで責任を負う、つまり、

「その人のミスは、あなた(あなたたち)が指摘すれば起こらなかったのではないか。」

そんなとんでもない理屈が教育現場ではまかり通っていたのだ。徹底的に「個」の意志が踏みにじられ、「他」との共有財産として塗り替えられる。だから「失敗してはいけない」のだ。

これらを踏まえて、少し大胆な提案をさせていただこうと思う。
一度日本の義務教育から「クラス」を無くしてみてはいかがだろうか。
30~40人の見ず知らずの人間が無作為に集められ、教室という箱庭の中に強制的に詰め込まれる。この仕組みが過剰な集団意識を根付かせるているのではないか。思い返すと、小学校から大学まで、我々は四六時中誰かと一緒に過ごしている。その結果、他人に依存し、やがて「個」の意志を「他」の意志に委ねるようになる。そんな生活を続けていると、ある日1人でも「個」の意志が復活した時、それを一斉に叩くようになる。これにより「いじめ」が発生する。
この「クラス」を無くし、自分の失敗が誰の迷惑にもならない環境に身を置かせれば、自己主張の考えが芽生え、自分の意志を第一に尊重するのが当たり前になるのではないかと考える。

対策⑦ 親と地域社会の役割

ChatGPTより、「学校だけではなく、家庭や地域社会も子どもたちの教育に関与し、多様な学びを提供するべきです。」、このように述べらている。確かにその地域ごとの職人や専門家から、自分の住んでいる町の特色を教わるのは、きっと心に残る体験となる。
さて、一方でこの場合の「家庭」の役割は何だろうか。本文では、地域社会の役割については「職人と専門家監修の職場体験」と捉えることが出来るが、「家庭」の役割については明記されてないように思える。そこで、今回の場合に「家庭」に求められることは何か、この部分について質問した。すると次のような回答が得られた。

1.失敗を受け入れる環境作り
子どもが失敗を恐れずに挑戦できるような安心感を提供する必要がある。子どもの失敗を過度に叱責したり否定したりするのではなく、むしろその失敗から学ぶプロセスを共に考え、励ますことが重要である。

2.子どもの個性や興味を尊重
子どもの特性や興味を見極め、それを伸ばすための支援を行うべきと考える。例えば、子どもが芸術に興味を持つなら、美術館に連れて行ったり、絵画教室に通わせたりする。興味が変わったとしても、それを否定せず柔軟に対応する。

3.教育に対する過度な期待を緩和
親の期待が子どもへの過度なプレッシャーになることを避けるべきである。また、「進学先よりも自分のやりたいことを見つけるほうが大事だよ」というメッセージを伝え、世論の固定概念より子供の幸せを基準に考えてあげる。

4.子どもと地域社会をつなぐ架け橋
地域での活動やイベントに参加させることで、多様な価値観や生き方に触れる機会を与える存在になる。

5.親自身が学び続ける姿を見せる
親が学び続ける姿勢を見せることで、子どもにとって学びが一生続くものであると理解させる。親自身が趣味やスキルアップに取り組む姿を見せたり、新しいことに挑戦する話を共有する。

6.他者との比較を避ける
子どもを他の子どもと比較することは、個性を潰す原因になります。
「○○ちゃんはもっとできるのに」はNG。

7.心の安全基地となる
子どもが心を開いて悩みや不安を話せる存在になることが重要である。
「どんなことがあっても、あなたを信じている」という言葉を普段から伝える。

なるほど。
確かに褒められて育った子供は良識のある人になり、あらゆることを否定されて育った子供はなんj民になるとネットで見たことがある。
~※全くの事実無根です~

冗談はさておき、上記7つは非常に筋が通った内容であった。やはり最も身近にいる親の立ち振る舞いが子供の将来を左右すると言っても過言ではない。しかし、その親も学生時代に「クラス」の一員に強制的になってしまっていることを忘れてはならない。やはり根本から変えねば負の連鎖は断ち切れない。親は一番近くで子供の成長を見守る立場にあるからこそ、一番個性を尊重する存在でなければならない。
その親を「親」として機能させるためには、実社会も働く環境を良いものにしていく努力をし続ける必要がある。親も1人の人間である。ブラック企業に働く親は、社会から優しくされないのだから子供に優しくできるはずがない。資本主義社会である以上、金の余裕がなければ心の余裕が生まれない。だからこそ、子供・親・社会のトライアングルは常に良質な相互関係を保たなければならない。

まとめ

[1. 教育の目的の再定義]
日本の教育は「社会に適応する労働者の育成」を目的としており、集団を優先し「個」の自我を抑える傾向が強い。しかし、令和の時代には多様なビジネスモデルや自己実現を重視する若者が増えており、現行の教育や社会システムに疑問が持たれている。これに対応し、個人の可能性を最大限に引き出す場として教育を再定義する必要性がある。

[2.多様な評価基準の導入]
現在の試験は画一的な評価基準に基づいており、知識の暗記や上司の指示を素直にこなす能力を測るに過ぎず、個人の可能性を引き出すには不適切である。教育においては、アートやスポーツなど机上では測れない多様な能力を評価する仕組みを導入し、個性を尊重する方向へ転換することが求められる。

[3.教員の育成とサポート]
教員は生徒の個性を引き出す重要な役割を担うが、現在の教師の選抜・育成方法は試験偏重であり、生徒と同じく画一的な評価基準に基づいているため、魅力的な授業ができない場合も多い。教員も生徒も「1人の人間」であることを再認識し、教育の現場での交流を有効活用することが必要である。そのためには、多様な評価基準を教員の研修や教育実習にも取り入れ、より柔軟で魅力的な教育環境を目指すべきである。

[4.カリキュラムの柔軟化]
現状の義務教育のカリキュラムは多様化が進んでいない。生徒自身が興味や目標に応じて時間割を組み、好きな科目を自由に学べる柔軟な仕組みを導入すべきである。例えば、算数が好きな子は算数を中心に学び、読書が好きな子は国語以外の形で学べる環境を整えることで、多様性を尊重した教育が実現する。大人は子供の自主性を信じ、カリキュラムの固定化を撤廃する大規模な改革を進める必要がある。

[5.自己決定権の拡大]
日本の教育は、あらかじめ決められたレールに従うよう生徒を指導し、自己決定権を奪っている。これでは多様性や持続可能性を実現する人材を育てられない。自由な発想を許容し、個性を尊重して伸ばす環境を整えることが必要である。

[6.「失敗」を肯定する文化の醸成]
日本の学校教育では、失敗が許されず、集団意識が過剰に根付く環境が形成されている。これは試験重視や「恥の文化」、連帯責任の考え方などが要因であり、「個」の意志が踏みにじられる仕組みが背景にある。この状況を改善するため、学校教育において「クラス」という仕組みを廃止することを提案する。集団生活から解放されることで、他人への依存を減らし、自己主張や「個」の意志を尊重する文化を育むことが可能になると考えられる。

[7.親と地域社会の役割]
日本の教育には、親と地域社会の役割が重要な1つのポイントである。親は、失敗を受け入れる環境を作り、子どもの個性や興味を尊重し、過度な期待を抑え、地域社会とのつながりを促進する役割を果たすべきである。また、学び続ける姿勢を見せ、他者との比較を避け、子どもの心の安全基地となることが求められる。一方で、親自身も学生時代からの集団意識や社会的負担に縛られていることを考慮すべきであり、親が健全に機能するためには、社会が働く環境を改善し、金銭的・精神的余裕を与える必要がある。子ども、親、社会が良質な相互関係を築くことが、教育の改善には不可欠である。

編集後記

ここまでChatGPTの協力のもと、これからの義務教育について考えてきた。「思考の拡張ツール」として生成AIを活用し、私自身の私怨も含めて書かせていただいた。
改めて、社会全体で新たなビジネスパートナーとして生成AIが受け入れられている理由が理解できた。質問への回答、要約、全て想像以上だった。私の人間味丸出しの文章をいとも簡単に専門家レベルの文章に直してくれた。これほどまでの文章を書いたのは卒業論文以来だろうか。
(いや、卒論はこんな中身のある文章書いた憶えがない・・・。)

元文系大学生の友人より

ここで、私の友人に、大学時代に教職課程を履修していた方がいる。折角なので本記事の下書きを彼にメールで送り、感想を書いてもらった。すると、数時間後になんとWord資料4ページ分のフィードバックが送られてきたのだ。そこには、私の意見に対して隅々まで考えを巡らせてくれた痕跡が数多くあった。ここでは友人の許可を得て、感想文を一部抜粋して紹介させていただく。
まず、彼が最初に指摘したのは「ChatGPTが出す回答の特徴」であった。彼は生成AIの回答には大きく2つの特徴があると述べた。

①入力する相手の立場を最大限尊重する
②入力した内容が回答の要点・結論になる

確かに、私が現在の教育システムについての疑問を投げかけたとき、AIは対立意見を絶対に言わなかった。どんな質問を入力しても、例外なく常にこちらの味方であり続けている。そのため、回答する際は、あくまでも私と同意見の見解を膨大なデータから収集し、そこから私が求めている主張の要点をまとめて出力する形なのであろう。私がが「現代の教育はこうだ」と言えばそれがchatGPTの見解になる。言ってしまえば結論ありきの回答ではないだろうかという、彼の指摘はかなり核心を突く内容だと言える。AIとの会話はどうしても1人称な視点になってしまうため、このようにメタ的な視点での感想は大変考えさせられた。

さて、本題の「義務教育」についてだ。
私は義務教育において「カリキュラムの固定化」が、子供たちの自由で多様な成長を阻害しているといった旨の主張を書かせてもらった。そんな私に彼が提示してきたのは、かつてNPO法人翔和学園に存在した「アカデミックギフテッドクラス」である。これはIQ130以上の「ギフテッド」の子供たちを対象に、個別教育で自身の関心が向く分野を重点的に学ばせるという取り組みだったそうだ。しかし、この制度は2015年を持って廃止された。この制度で生じた弊害を、彼は次のようにまとめてくれた。


確かに身につけた知識は凄い「ように見える」が、クラスで集団教育を受けていなかったためその道のプロの話にも耳を傾けない。また、社会性が身についていないため、能力を公正に評価しようとするとすぐ攻撃的になる。さらに、好きな形での努力しかしてないから基本的に何をするにも冷めやすい。 好きな事を好きな様に学ばせると言う学習形式が、苦手な事を学ぶ中で得られる社会性を削ぎ落とし、かえって子供達の可能性を狭める結果となってしまった。


目から鱗である。
「興味のあることだけを学ぶ」教育方針に対する懸念点をこんな形で指摘されるとは思いもしなかった。もちろん、高IQおよび発達障害を持った子供に焦点を当てた話ではないかという反論は多少ある。一方で、私の改善策にあった大きな穴を如何に埋めるかを考える上で重要な知見を得ることが出来たことは間違いない。
この他にも、彼は従来通りの「国語・算数・理科・社会」を学ぶ意義について、次のような意見を述べてくれた。


例えば、自分の得意分野である絵画の才能を伸ばしたいと言う子供がいたとする。そこで求められる能力は単純に筆を持って絵を描くだけでは無い。 自分の思いを筆に乗せて描くならば自らの状況を「メタ認知」し、言語化する必要がある。これには国語の能力が求められる。 オブジェなどを作るのであれば図版を作成し、大きさや材質・使う道具にもこだわる必要がある。これは数学、そして技術の知識が必要になる。 戦争画を描くのであれば自身の住む地域や世界について知らなくてはならない。これは社会(歴史学等)にも通じる部分がある。さらに、兵器を描くならば理科の知識が多少なりとも必要だろう。


如何にもミリタリーファンの彼らしい意見だった。また、彼は「義務教育」を、あらゆる分野において世界を渡り歩く「通行手形」のようなものと語っている。読み手によってはかなり保守的な意見と捉えられそうだが、私はそうは思わない。むしろこれは真正面から義務教育と向き合い、大学時代にも教職課程を通じて「教育とは」を考えてきた証拠だと感じた。かく言う私自身も、このような記事を書けるくらい「教育」という課題を学生時代考え続けてきた自負はあるのだが、やはり実際に現場を見て経験した者の考え方はまた違った味がある。

これ以上書くと編集後記が本文と同じ分量になってしまいそうなため、ここで区切りとする。今回の記事、楽しんで頂けただろうか。

最後まで本記事を読んでくれた方々に、心から感謝申し上げる。

                               ~終~

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