理想はゼロベースで考えていいけど、現実はゼロベースではない
おはこんばんにちは!現在Lv.21のゲーミフィケーションくんです。
ゲーミフィケーションを導入したらもっと世の中よくなる!と思って、まずは広めていこうと奮闘しているのですが、こうしたときにやりがちなミスに気づいたので、共有しようと思います。
というので今日は、「理想はゼロベースで考えていいけど、現実はゼロベースではない」ということを書こうと思います。
「こうすればいいのに」は意味ない
大きな効果があることが分かっているゲーミフィケーションは、「実施できるか問題」をどうやって解決するかが重要だったりします。
で、こういう時の「あるある」なこととして、自分が良いと思っていることをやらない人に対して、「こうすればいいのに」ということを言いがちなのですよね。
理想はこれなのに、なんでみんなやらないの?みたいな感じです。
これって環境問題とかにもいえて、「リサイクルすればいいのに」とか言ってしまいがちです。
みんなそんなことは分かっていて、、でもリサイクルはめんどくさいです。なので注目すべきは、「なんで実施できないか」だったりします。
他にも、「勉強すればいいのに」というのもズレていて、、勉強しない裏には「勉強して得した経験がない」とか、「勉強するとダサいと思っている」とか、ちゃんと理由があるわけです。
問題は「どうすれば、それができるか」です。
『方法序説』という本に書いてあるのですが、「ゼロベースで考えよう」という話があります。
でもこれって落とし穴があって、「理想はゼロベースで考えるのがベストだけれど、現実はゼロベースじゃない」というのをよく考えないといけないです。
現実がゼロベースならすぐ理想を形にすればいいのですが、現実はゼロベースではないので、現実を見てやらなきゃいけないことがたくさんあるのですよね。
制度的な問題だったり、気持ち的な問題だったり・・・。そのベースを考えないといけないと思っています。
「こうすればいいのに」というのは大体わかり切ってることが多いので、基本的に「どうすればそれができるか」ということを考えたほうが良いということです。
制度的な環境を考える
「こうすればいいのに」が通らないとき、その障害となるのは「環境(≒ベース)」です。
お金がなくてできない、というのは「お金」が障害になってるように見えるのですが、結局「お金を調達できないのはなぜ、、?」とか「なんで予算をおろしてくれないのですか!」みたいな環境の話に落ち着きます。
ひとことでいうと、「お金は環境価値を数値化して交換するツールだから、お金をカウントするのは微妙」という感じです。
というので、「現実がゼロベースでない」ことを踏まえつつ、環境を考えないといけないのですが・・・。
まずは制度的な部分を考えてみます。
たとえば、日本の学校でゲーミフィケーションソフトを使いたいと思って環境を考えると、
・勝手にやっていいのか
・ネットワーク環境を勝手にいじっていいのか
というようなことがパッと浮かびます。
これを考えると、「権限」の関係が心配事としてあるようです。
でも日本の学校ではクラスに関する権限は担任の先生にかなりのウエイトがあるので、教室内でシステム構築が収まればいい、ということになります。
そうすると、iPadがないなどの現状を考えても、紙媒体なら容易に導入できることが分かります。
日本の学校は紙媒体をかなり使うので、紙媒体を収納するためのファイルがあるなど、むしろ導入しやすい環境にあることが分かります。
以下のツイートのように、「せいかつビンゴ」という、子育てにめちゃめちゃ導入しやすい紙媒体の商品もあったりします。
ビンゴすればいいんだな、というのが誰でもすごく分かりやすいという点で圧倒的に優れています。
というので、「こうすればいいのに」が通らないとき、その障害となる「環境(≒ベース)」を考えていくと、ゲーミフィケーションを学校の環境の場合いきなり電子媒体でやるのは無理ゲーな一方、紙媒体ならとてもやりやすいし、そういう商品もあることが分かりました。
権限や規則など、制度的な環境を考えないといけないよね、ということです。
人の気持ちという環境も重要
「紙媒体がやりやすい」のって会社とかでもいえて、いきなり若者が「Regenerate Systemが無料公開されました!人事に導入しましょう!」とか言ってきても、すごく困るのです。(※Regenerate Systemは適当に考えた名前です。なんかかっこいいのでこれにしました。)
そこで、紙媒体なら、「見たものが全て」というようなイメージがあるのです。
謎のソフトに比べて、何をするかの全体像が「つかめている感じ」がして、安心します。
ここで大事なのは、実際つかめているかはどちらでもいいということです。
『太鼓の達人』とかはそのへんが秀逸で、みた瞬間に「タイミングよく太鼓をたたけばいいのね」と思えて安心します。
というので、環境を考えると色々なことが見えてきて、現実のベースに合った段階的な変化ができます。
『群衆心理』という本に書いてあるのですが、「群衆は保守的になる」という話があります。
「導入しよう!」という提案した時、周りの人が「導入する、、?」となって相談を始めても、「よくわからない」というのもあって保守的になります。
結果として「やめておこう」となるのが当たり前だったりするので、それを前提にするといいかもしれないと思いました。
新しいことをしようとするとき、人の気持ち的な環境も考えないといけないよね、ということです。
「よく分からない」のが普通な時代だからこそ、感情を動かすべき
「こんなに良いものなのに、なんで使ってくれないんだ」みたいな考え方って、いつも対立を生むのですよね。
テクノロジーが発展してできているものって大体謎なものが多いわけです。でもそれに対して、「クラウドサービスを使わないなんて老害!」みたいに言うのって、いかがなものかと思っています。
これって、導入するかに関する「モチベーション自己責任論」なのですよね。
自分が信じているものを分かってもらえないのは、大体「よく分からないから」ですし、「これは素晴らしい!」って思った時点で新鮮な発見だったはずなので、他の人にとってよく分からないというのは当たり前に生じるのですよね。
でも、これ自体は案外知られているのですが、「よく分からないものを恐れる人は愚か!」みたいにそこで思考が止まっているのが大半なのですよね。
「よく分からないから怖い」ということが分かっているのなら、次は「分かった感じにするにはどうすればいいか」を考えればいいかなあと。
ただ「仕組みを教える」というのは微妙で、「安心感」や「納得感」を与えることが大事だと思っています。
「インターネットはこういう仕組みだから導入すべき!なにかおかしいこと言ってる!?」みたいなのって、言っても仕方なかったりします。
「この人が言うんなら、任せて大丈夫か」みたいな「安心感」「納得感」が必要です。
『人を動かす』という本に書いてあるのですが、「人間は論理の動物ではなく、感情の動物であることをよく認識すべきだ」という話があります。
テクノロジーが発展して「よく分からないもの」が増えていくからこそ、ロジカルな説明をするより「なんか良くなりそう!」という感情を生むのがいいかなあと思っています。
相手を責めずに、「論理的な不安」ではなく「感情的な不安」をしっかりとってあげることが建設的だなあということです。
ということで
このようなことを考えると、「Regenerate Systemが無料公開されました!人事に導入しましょう!」の微妙な感じが伝えられたかなと思います。
理想はゼロベースで考えていいけど、現実はゼロベースではないのですね。
僕はゲーミフィケーションを広めたくて活動していたりするのですが、「ゲーミフィケーションどうぞ!」みたいな打ち出し方って微妙なのかなと最近思っています。
たとえば、「クラウドサービスどうぞ!」とか言われても、クラウドかどうかはどうでもよくて、「それを使えばどうなるの?」というのにしか興味がなかったりします。
それに、環境としてのゲームという言葉へのイメージも考えなければいけませんし、ゲーミフィケーションで社員モチベーションを管理します!みたいなツールを作っても簡単には通りません。
なので、ゲーミフィケーションという「よく分からない」言葉を使うより、「人のモチベーションを高める具体的な方法」みたいな言い方をするなど、現実のベースをもっと知らないといけないと思っている今日この頃です!
では!