マリオに見る「部分的非合理」【Ver.1.1.0】

こんにちは!

今日は「マリオみたいに部分的には合理的じゃないものが大事だよね」という内容で書いてみようと思います。

不自由なマリオ

マリオをやったことがある人なら覚えがあるかもしれないのですが、マリオでダッシュしている時って疾走感が気持ちいいですよね。

でも気持ちよくダッシュしていて、突然クリボーが出てきたりしたら、急いで止まろうとします。で、この時「走った後、急には止まれない」ということがあったりします。

これって、いわゆる「慣性」が働いているということです。でも、その瞬間においてはすごく不便じゃないですか?全ユーザーが止まりたいと思う瞬間なのに、止まらせてくれないんです。

なぜそんなことをするかというと、マリオの楽しいポイントがそもそも「障害物競争」だからです。

その「障害物競争」にリアルさを生むという全体的な合理性のために、マリオの操作性を不自由にする必要があるんです。

他のゲームでも、『ワンダと巨像』という「巨人と生身の人間一人と馬で戦うゲーム」のゲーム実況へのコメントを見たりすると、「馬の操作がしづらい」と書かれていたりします。

でもこうして「現実と同じように、馬の操作は思うままにならない」という歯がゆさを演出することで、思うように飛んだりビームを出したりできない人間の弱さと巨人の強さをリアルにしています。

部分的非合理と全体的非合理

これは『ストーリーとしての競争戦略』に書いてあったりすることなのですが、「全体でみた合理性」と「部分でみた合理性」を分けないといけないよねという話があります。

しかし、この概念自体は知られていて、「木を見て森を見ず」みたいな言葉もあったりして、「部分も大事だけど全体も大事だよね」という意味で受け入れられています。

でもこれって、ちゃんと意味を考えないと「部分的に合理的で、全体で見ても合理的」にしようとしてしまうのですよね。

一方で『ストーリーとしての競争戦略』には、「全体的に合理的で、部分的に非合理的なのが良い」という感じのことも書かれています。

簡単にたとえてみますと・・・。

なにか作業をするときに、「集中できていても、25分に1回休憩する」というのは、「集中できていたのに中断するなんて非合理的」な感じがするのですが、「一日中作業するなら嫌でも休憩する(非合理的)ほうが全体で見て合理的」なんです。


なんで部分的非合理が大事か?

頭がいい人とか真面目な人ほど、部分的にたくさん合理的にしてしまうばっかりに、損してしまっているなと感じていて・・・。

やっぱり毎日生きていると、全部に全力投球って難しかったりします。「本当にハイスペックな人」だと大丈夫だと思うのですが、それって「本当にハイスペックな人」です。

たとえば僕だと、大学のレポートを全部真面目にやるということは能力が足りないのでしません。「目の前のことに全力投球」という人はレポートもすごい出来なのですが、しんどそうです。

で、そのレポートを仕上げることでの恩恵は特にないですし、その時間で本を読んでいたほうが知識が増えます。

そして、「本当にハイスペックな人」って、全部に全力投球して「量」を稼ぐだけではなく、「質」が全然落ちなかったりして、追いつけないです。

これは『エッセンシャル思考』とか『ランチェスター戦略』という本にも書いてあるのですが、「とにかく資源集中」というのが大事です。

無駄なことをしよう

というわけで、最近僕は本を読んだりnoteを書いたりしているのですが・・・。ずっとゲーム実況が横で流れています。

これやめたほうが集中できる、というのは思っていたのですが、これが今活きていたりします。

真面目な人とか育ちがいい人ってゲームをしていないことが多かったりして、部分的に合理的なんですね。言い方はあれなんですけど、みんな似たり寄ったりなんです。

なんでか考えた時に出てきたのは、「合理的に考えるとみんな同じことをする」ということです。

たとえば、合理的に考えた人はみんな「受験勉強」して、「TOEIC」がんばって、「就職」して、という感じで最適解を選んでいった結果みんな同じになります。

こういう感じで、ディスカッションしたときにも独自性のある発言がないんですよね・・・。

ディスカッションって自分しか知らないっぽいものを言ったほうがいいと思っていて・・・。ゲームのデザインやストーリー形式から発言したり、好きで読んだ本のアイデアを使うなどするのですが、頭がいい人って最適解を選ぶことができる一方で個性を失ってしまっているんです。

アイデアのつくり方』という本に書いてあることで、かなり有名な話なのですが、「アイデアは既存知と既存知の組み合わせだ」という話があります。

じゃあ似たり寄ったりの人が集まって組み合わせでのアイデアが出るかというと、出ません。同じような知識をもった人が集まって何か出たとしても、既出である確率が高いです。

また、スティーブジョブズというiPhoneを作ったすごい人の有名なスピーチで、「点と点をつなげる」みたいな話があります。

彼は大学で「カリグラフィー」という綺麗な文字の勉強をしていたからこそ、パソコンを作る時に書体にこだわるなど、美意識にこだわりました。

このあたり、「正解がコモディティ化してる」みたいな話で、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』とか『13歳からのアート思考』という本でよく言われています。

でもこれってプログラマーからしたらかなり面倒臭い注文なんです。パソコンに映る文字がファミコンゲームの文字みたいで普通だった時代に、きれいな文字が映るって重要ですか?となってしまいます。部分的に非合理的すぎる話です。

でも、その流れはMacが創造的なことに使われたり、ブランド化につながったりして、「全体として合理的」となりました。

アップル製品の数をめちゃめちゃ少なくして資源集中した彼が、同時に資源分散もしているのですから興味深いです。

こういった「一見無駄な資源分散」がオリジナリティを生んだりします。

他にも、「募金をする」とか、「人に恩を売りまくる」という一見損するだけの行為も、「募金をするような人に近づいて優しい性格になる」という効果や、「恩返しがくる」という合理性があったりして、部分的非合理性の効果はもはや書ききれないです。

ということで

このように、「正解がコモディティ化してる」、とよくいわれ「アートが大事」というのはここ最近のトレンドでしが、そこへの対策は「部分的に非合理的で全体的に合理的」にするのがよさそうです。

このあたり、社会全体の話としてもいわれてることですが、ディスカッションのレベルでも見られていることなので、個人でもできることだと思います。

ゲームを見ていると、『ドラクエ』における「ぱふぱふ」の立ち位置とか、『どうぶつの森』で住民を虫あみで叩けるとか、色んな「一見非合理的なもの」が隠されていて面白いです。

話を戻すと、「資源集中」とか、「一見無駄な資源分散」とかは「凡人の基本戦略」でもあるので、大事にしなきゃなーと思っているこの頃です。

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