見出し画像

お題:落果/父/鈴

 手のひらに頭を預けて、ストレスのない壁をぼんやり眺める。眺める、というより、目を壁に置いておく、という感覚のほうが近い。思考は壁にない。一年を少しずつ振り返っている。毎年同じような時期に振り返っては、“恥の多い生涯を送って来ました”を文頭に、“ただ、一さいは過ぎて行きます”という真理で終わる一年を繰り返す。成長も学びもしていない、否、自分という人間の生き方が定まってきた。私案は後者、真義は前者である。即興の二択で進んでいく人生のほとんどを不正解で突破し、たまの正解は大筋の人生における正解のために、不正解人生においては不正解であるから、結局間違ったまままた年を重ねていく。

 ……などという面倒な言い回し、もとい、捻くれた思考性が己をさらにダメにしていく。わりに脳みそは単純で、ほとんどのものは美味しいし、猫を見れば「可愛い」と言う。そこに捻くれの“ひ”の字もない。“h”の縦棒にも満たない。あぁまた思考性、と思ったところで派手に鈴が鳴る。部屋の奥に転がっていた猫用のおもちゃを、猫自身が見つけたらしい。一度転がして様子を見ただけで、もう興味はどこへやら、軽い足取りで窓のふち。急な鈴に戻された現実で、考え事よりも上の空のまま外を見る。昼のつもりでいた空は、氷の溶けたジュースのように、じわじわとオレンジが迫っていた。何かを興味深く見つめている猫、空、部屋。3周目の空で、鳥が飛んでいくのが見えた。猫が窓に張り付く。何かが落ちる音。すぐそばにある木の果実が、鳥と合わせて落ちたのだろう。未熟なまま落ちていく果実は、どんな想いで土に還るのか。

 人間だって同じようなものか。果実は“熟した”がわかりやすくて、良い。人間にとって“熟した”は、あくまで個人の感想に過ぎない。歳を重ねればすなわち熟した、ということになるわけでもない。いや待て、その理論じゃあ果実にとっての“熟した”と人間目からの“熟した”にも差異があるのではないか? ……詰める必要のない思考を詰める癖は、誰のどこを受け継いだのか。答えを求めるように、猫を探す。まるでわかっていたかのように目が合う。自分で考えなさい、とのことだ。無論、こちらの憶測である。

 父はいない。母は感情の人だ。みちみちと理論を突き詰めるタイプではない。思い当たる唯一と言えば、文字通り朝から晩まで働く母の傍ら、一人の時間が増えた故の思考性。一人遊びと妄想で幼少期を生きた人の象徴のような人間に仕上がってしまった。幸いにも家には一人ぼっちではなく、生まれた時から犬と猫がいる生活だった。しかし、これも良くない。ほとんど返事をしない相手に、延々と喋りかけてしまう。一方通行の会話はすなわち、“聞く耳を持たない”をそのままの意味で育ててしまうのだ。世の中のほとんどは話したがりで、聞き役がとことん不足する。話を聞こうと思っても、「わん」か「にゃあ」だ。参考にならない。

 手のひらに頭を預けて、ストレスのない壁をぼんやり眺める。気付けば4ヶ月も経っていた。取り返しのつかないほどの錆と綻びで回転をやめた脳みそは、できる限り頭を使わずに生きた数年間のどうしようもない対価だ。手のひらに預けねばならぬほど身の詰まった頭でもない。ならばなぜそんなにも重いのか?を表すなら、「頭でっかち」の一言であろう。くだらない。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?