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怠惰

 予定より早く仕事が終わったもんだから、一本プカーっとやりつつ、何をしようかと雨空を見上げ、「本を読もう、本だ本だ」と意気揚々と立ち上がり、立ちくらみ。

それでも“落ち着いて本が読める”という幸福に立ちくらみは敵わず、読みかけていた本を手に取り、まだくらんでいる状態のままこたつにイン、パラパラとページをめくっていく。

伊坂幸太郎さんのホワイトラビット。『白兎(しろうさぎ)事件』がどうにも読みづらくて読んでいなかった、という酷い理由から遠ざけていた本。

読んでいるうちに思ったのが今日の主題。わたしは、自分に起こる“痛み”を、“今起こった事実”程度にしか考えていない。

 小さい頃、石段に頭をぶつけて、縫ったことがある。つまりは、縫わなければいけないほどの怪我をした、ということになるわけだが、わたしを抱え、焦って家に走る母親をよそに、一滴の涙も流さなかった。

きょとんとしたまま玄関に座らされ、タオルで頭を押さえておくように言われるも、わたしは母にずっと「頭から血が出てる?」「なんか大変?」と他人事のように問いかけていた。

その数日後に、果物にかけるネットのようなあみあみを頭にかぶったわたしが、保育園の運動会でプラカードを持って行進したその瞬間までを含めた一連で、最も記憶に残っている出来事。それは、頭をぶつけた衝撃でも、縫った事実そのものでもなく、“縫う処置を受けているときに、押さえつけようとわたしの上に乗ってきた看護師のおばさんがあまりに重くて、怪我よりもよっぽど死にそうだった”こと、これである。

縫うことなんか1ミリも怖くないし、暴れもしない。暴れる子供が多い前例がそうさせたのだろうが、声も出せないほど苦しいし死にそうだから、身体を動かすでしか抵抗できず、でもそれは“縫う処置”への抵抗だと思われるから、さらにおばさんが重くなる、最悪の悪循環だった。

 痛いもんは痛いから「痛い」と言うけれど、どうも痛みを自分ごととして処理するのが苦手だ。痛い、は、つらい/ストレスに分類されない。強いて言うなら「めんどくさい」。

例えば足を捻挫して、普段通り歩けなかったとする。もう、かなり、めんどくさい。だから、痛いのを承知で普通に歩く。痛いけど、まぁ、治るだろ。くらいにしか思っていない。痛みの全てはめんどくさい。つらくも苦しくもない、めんどくさい。

頭を縫った時も、激しい運動はしちゃいけないと言われて、走るたびに怒られた。平気だから走っているのに、頭のせいで走れないなんて。めんどくさい、嗚呼めんどくさい。

昔から、身体のどこかが痛いことが当たり前だった。でも、気にも留めない。どうせほっといたら大体治るからだ。喚こうが何しようが状況は変わらないから、気にしないで放っておく。

自分の身体に重大な疾患があったとしても、気づかないまま死にそうだな、とは思う。一時期、プツッという音とともに自分の身体が倒れ始め、おっと危ない、と堪えた直後から頭痛が始まることがあった。これに関しては、そういうアトラクション、くらいにしか思わなかった。そして、今はもう滅多にない。

 なーんか痛いと思ったら血が出てるとか、ふとした拍子にぎっくり腰とか、そういう人生だ。

ただ、こんなわたしでももう二度となりたくないと思ったのは、前述の後者、ぎっくり腰だ。もう、絶対に、二度と、何があっても、なりたくない。寝返りも打てない、立つも座るも地獄。腰を壊すと、人間にとって致命的であることがとてつもなくよくわかった。

なのに体重を増やしてしまうんだから、愚かなもんです。はぁー愚か愚か。

 さて、本の世界に。


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