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折り畳み傘

 もし仮に、「“運命の人”が存在する」とするじゃないですか?

これ、本当にちゃんと存命の人間ですかね? 場合によっちゃ死んでない?

「あなたには運命の人が確かに存在しました。でも、それは織田信長だったんです。時を超えて運命で結ばれる、とってもロマンチックですね、素敵です!」

とか言われたらぶん殴っちゃうかもしれない。きっとこの人は目が真っ黒でしょう? 正気に戻るんじゃない、もしかしたら。

歴史が好き、特に織田信長が、って人はごめんなさいね。残念ながらわたしは織田信長に情がないので、「そこにいるおじさんが運命の人ですよ。そんなもんでしょう、夢のようで現実的よ、運命って」とか言われたほうが、「だよね!ガハハ」と思います。

運命ってきっと、いくらでも創造できるもので。各々の思い込みの深度、あるいは強度、回数なんかでもどうにでもなる。

それでも、なんか、ねぇ。いないもんかね。

 3時間だけバイトして帰ってきて過去のM-1観てケラケラ笑って、わりと虚しいけど別に生きてる。

死んだ目して毎日会社に通ってた時より人生が楽しいと思える。

楽しいことしかしてないからっていうのももちろんあるかもしれないけど、なによりも“些細なことを楽しいと思える心の余裕”が生まれたから楽しい。

本当に楽しくない状態だと、楽しいが楽しいと思えないことをよく知っている。楽しいっていつでも楽しいわけじゃない、条件が揃わないと意外と楽しくない。

いつでも楽しかったはずのことが一切楽しくなくなったり、その楽しいことすら遠ざけるようになったら、その時点で赤信号だと思います。

 Macintoshの民を5年ほど続けているがゆえ、Windowsの使い方をほとんど忘れてしまいました。Time Machineをください。Macintoshジョークです。



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