美とは、自分の感覚である。
静嘉堂文庫美術館で国宝の曜変天目(稲葉天目)を初めて観たのは、画廊で働き始めて間もない26歳の頃。黒い茶碗の見込みに青い斑模様が浮かんでいたが、何が美しいのか、何故国宝なのか全く分からなかった。国宝の曜変天目は日本に三碗あり、それからも時折目にしたが、感想は大して変わる事はなかった。
それまでと全く違って見えたのは、今年の七月に同じ静嘉堂文庫美術館で観た時。皆が言うからでなく、国宝に指定されているからでもなく。漆黒の黒も、青く光る斑模様の光彩も、確かに美しいと感じる自分がそこにいた。綺麗な「星空」や「銀河」という言葉を自然と思い浮かべた。この変化は、大きな喜びであった。
また、長い間私は、花というものに魅力を感じずに生きてきた。「花を美しいと感じられるようになりたい」と思う自分はいたものの、花を見て心底綺麗と感じたことは本当に皆無であった。
しかし今年の八月一日、画廊で店主主宰茶の湯教室のお弟子さんを招いたお茶会で、床の間に活けた木槿を見て、感動を覚えた。木槿の元々の可憐な美しさと、まるで野の中で咲いているかのように活ける技術が合わさり、一枚の絵画の様であった。
何故、それまで美しいと思わなかったものに美を感じるようになったのだろうか。明確な答は分からないが、このようなことは時折起こる。似た経験は誰にもあるのではないか。新たな美の発見。そんな時、生きていく素晴らしさを感じる。これから先、何が起こるかと、わくわくするということ。
せっかく「美」を扱う画廊で仕事をさせて頂いているのだ。「美」とはどういうものか。このnote執筆を通して、探究していきたい。そんなことを、今、考えている。