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2-10. Peck

結局のところ、食欲には勝てない。
ガーリックとオリーブオイルのたてるいい匂いを嗅ぎながら、私はソファの上で赤ワインを飲んでいた。アルゼンチン産のマルベックが安く手に入ったとジョージは喜んでいる。

ジョージの部屋は私の泊まっているホステルから歩いて5分ほどの場所にあった。れんが造りの4階建のアパートメント。エレベーターはなく、1960年代には最先端だったであろうデザインの階段を上った2階だった。

「やぁ、いらっしゃい。狭いけれどゆっくりしていってね」

小ぶりなキッチンとバスルームがあるだけの、シンプルなワンルームだった。裏通りに面した窓の外には大きな街路樹があり、部屋に差し込む夕陽を柔らかく遮ってくれていた。窓際には足を伸ばして座れるデイベッドが置いてある。

ベッド、ソファ、ローテーブルと本棚、そしてデスク。柔らかい白熱球の照明器具以外の家具は全て、温かみを感じさせる木と布でできていた。部屋はその人の性格をよく表すなぁ、と私は感心して眺めた。昨日連れていってもらったヨットとも似ている。最先端のものや高級そうなものは何も無いけれど、落ち着いた居心地の良い部屋だった。

壁には、アボリジナルアートやバリの人形、南米のサッカーチームのロゴが飾られている。自転車、ギター、カメラやCD、たくさんの本。気ままに人生を謳歌しているリタイア後の毎日が伝わってくるようだった。旅行の予定を立てる目的以外に、パソコンなんてまず使わないに違いない。部屋の角のオーディオからはラテンジャズらしい音楽が低く流れている。

「まだ料理ができるまで少し時間があるから、これでも食べていて」

世界各地のマグネットでグリーティングカードを貼りつけてある冷蔵庫の扉を開けて大きなチーズを取り出すと、ジョージはそれを手際よく小さな塊に切り分け、赤ワインが入ったグラスとともに私に手渡した。

「ありがとう」

壁には写真のコラージュが架けられている。赤ワインをゆっくりと舌の奥へ押しやりながら、私は失礼にならない程度にその写真たちを眺めた。幼い頃のジョージや、ジョージの両親であろう男女。友人たちとの結婚式。コンサートや旅行。庭先に寝そべる犬。幼い子供を抱いたジョージの傍らには、元妻と思しき女性が写っていた。解像度の低い横顔からは、表情はよくわからなかった。

「お待たせ。熱いから気をつけてね」

ボウルいっぱいによそられた熱々のパスタを手渡すと、ジョージはソファに座った私の対角に位置するデイベッドに腰掛けた。今日はいつものくたびれた船乗りのようなTシャツではなく、襟のある半袖のシャツを着ている。眼鏡とあいまって、くたびれた大学教授みたいに見えた。

野菜がたっぷり入ったトマトソースパスタは申し分のない味だった。考えてみれば、家族以外の誰かに料理を振舞ってもらったことは久しぶりだ。あまりがっついているようには見られたくなかったけれど、たぶんがっついてしまったと思う。勧められるままに、おかわりも平らげた。もちろん、それに比例してワインも注いでもらった。

マルベックのしっかりとしたタンニンを味わいながら、私たちはいろいろな話をした。これまで旅した場所のこと、仕事のこと、家族や趣味のこと、そして行ってみたい場所のこと。

地球の反対側で四半世紀ほど違う時代に生まれた私たちの間に共通点なんてほとんどないだろうと思っていたのに、意外なほどジョージと私の価値観は似ていた。それは私がかつて、アメリカに留学していた経験があったからかもしれない。自分の生まれた国から、別の国へ。慣れ親しんだ環境から離れて挑戦する中での失敗。自分の世界を広げたいという衝動。助けてくれたたくさんの人たちとのつながり、薄まってゆく自分のルーツとの葛藤。

ジョージは話し上手でもあり、聞き上手でもあった。一つの話題がもう一つの話題を呼び覚まし、お互いがお互いに質問し、会話が果てることは無いようだった。冷蔵庫に貼ってあるグリーティングカードとマグネット一つ一つの由来を聞くだけで、今夜が終わってしまいそうだった。

初めて出会ってからまだ10日も経っていないのに、まるで家族のようだなと私は不思議な気分だった。どうしてこんな風に、何でも話して大丈夫だと安心できるのだろう? これは旅行者の特権だろうか、それとも何か別のとくべつな力が働いているのだろうか? 

食後のチーズを齧りながら私は、ソファの横に置いてあったオーストラリアの分厚い地図帳に目を留め、膝の上に持ち上げて広げた。年代物らしく、背表紙はややほつれて表紙がずれかかっている。けれどその重みとページ数の多さが、Google Mapではわからないこの国の広大さを改めて感じさせた。

「よく旅してるのね。地図帳がボロボロ」
「ん? あぁ、そうだね、ここに引っ越した頃に買ったんだ。でもまだ行ったことのない場所はたくさんあるよ」

この人と私はなぜこんなに気があうのだろう? こんなにページがある中、たまたまあの日二人ともウルルにいただけで?

アルゼンチンからオーストラリアに来て大学に入り、職を得て結婚して子供をもうけ、離婚して退職して旅行して——この人が訪れて来た場所は、私が知らない中継地ばかりだった。なのに不思議なほど、私はそれらをよく知っているような気がした。

「ここにはどれくらい住んでるの?」
「もう10年以上になるかな……。妻と別れてからだから、もう15年か」

ワインのせいか、もしくはそう言い訳できるタイミングだと本能が告げたのか。聞きたいことを聞くなら今だ、と頭のどこかで声がした。

「すごく個人的なことを聞いてしまうんだけど、いい?」
「別れた理由?」

ジョージは片眉だけを少し持ち上げた。優しかった声に少しだけ緊張が混じった。
察しが良すぎるのは、ジョージの年の功なのか、それともこれまでのガールフレンドとも同じ会話を繰り返して来たからだろうか?

「妻が浮気したんだ」

間違ってオーダーしてしまった不味いワインを飲み干すような表情でジョージは言った。

——だからか。

彼の持っていた傷が、私の持っていた傷と対をなすものだったのだと、その時私は全てが腑に落ちたような気になった。

「楽しい話じゃないよ、大丈夫かい?」

ジョージは少し試すような表情で私を見た。むしろ、それを私は聞きたかったのだ。私は頷いた。

「OK」

ジョージは立ち上がると、自分のグラスにワインを注ぎ足し、私のグラスにも少し足した。

「よくある話なのかもしれないけど、メールの送信履歴で気づいたんだよ。当時はHotmailっていうサービスを家族で使ってた。けれどある日、別のアカウントでログインされたままになってたんだ」

もう少しうまくやってほしかったよ、とジョージは肩をすくめた。

「妻は仕事で知り合った男性と浮気していた。自分でも不思議だけど、彼女が別の男と寝ていたことに対して怒りは湧かなかったよ。ずっとセックスレスだったしね。でも子供たちに対する母親としての責任を果たさないことにはすごく怒りが湧いた。家庭を壊そうとしているなんて、どういう神経をしているのかと思ったね」

ジョージはワインをもう一口含み、グラスを手の中で軽く回した。太く大きな彼の指が、少し強張っているのが見て取れた。

「やり直そうとしたんだ。子供たちのために、許そうとしたんだよ。でも彼女は別れたいと言った。別れてその男と人生をやり直したいと。彼女は上昇志向の強い女性だった。僕では、彼女の望む人生には不十分だったんだろう。子育てにもロクに関与せず、仕事ばかりやっていた”母親”にとってはね」

言葉は辛辣だったが、そこには彼の揺るぎない信念と人生の優先順位が伺えた。

「この話、続ける?」

ジョージは初めて見る自嘲的な表情で尋ねた。傷ついた人の顔だった。私はうろたえた。

「ごめんなさい。言いたくないことを言わせてしまった」
「大丈夫だよ。過去のことだ。もう何とも思っていないし、こうやって話せるくらいには自分の中でけりがついたことだからね。知りたかったんだろう?」

私はもう一度頷いた。そして、質問しなければならなかった理由を説明すべきだと感じた。

「私はあなたの痛みを『わかる』とは言えない。私は結婚したこともないし、男の人とまともに付き合ったこともないから。でも一つだけ言えることがある。私がどうしてこんな、立ち入ったことを聞いてしまったのか」

私はゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐いた。マルベックが手の中で揺れた。

「私の両親も離婚したの。お母さんの浮気が原因で」

ジョージの瞳がゆっくりと大きくなった。

「それはいつのこと?」

彼は静かに訊ねた。

「私が12歳の時」

呻くようなため息をジョージは発した。

「12歳か。ひどいタイミングだ」

私は肩をすくめ、グラスをテーブルに置いた。この話をするのは、本当に限られた相手だけだ。けれど話すときにはいつも、どこか斜に構えた態度になってしまう。

「最適なタイミングなんてないよ。いつだってひどいタイミングでしょ」

自嘲的に笑って、私はジョージを見た。大丈夫だから、私はちゃんと乗り越えられてるから。そう言うものだとわかってる、大人に期待なんてしていないから。人間だもの間違うことだってあるでしょう? だから許さないといけないんでしょう? 無理だったんだから、仕方ないと飲み込むしかない。ほかに何ができるって言うの?

ジョージは眼鏡の奥から、苦しそうに私を見つめた。

「それはそうだろうけどね。でも、君は子供だったじゃないか。苦しかっただろう」

その時、何もかもがぴったりとはまるような感覚があった。ここに来たことも、この人と出会ったことも、この人でなくてはならなかったことも。

——あぁ、だから私はこの人に惹かれたのか。

意識することをどこかで避けていた。けれどその興味をもう無視することはできなかった。身体のどこか奥深くから、彼のことをもっと深く知りたい、自分のことをわかってほしいという欲求に突き動かされていた。

「もう一つ聞いていい? 離婚とは関係ないことだけど」
「今日はもう何でも話す気分だからね。いいよ」

ジョージは半ばおどけて言った。
私は彼を見つめ、けれど目を逸らした。まともに彼の目を見て聞くことはできなかった。カーペットに向けて私は問いかけた。

「なぜキスしたの?」

ジョージは一瞬止まり、驚いたように私を見た。

「キスなんてしたっけ?」

今度は私が驚く番だった。あんなことをしておいて、覚えていない? それともしらばっくれるて、なかったことにする気だろうか。それでも、何について疑問を感じているのかをはっきりさせたくて、私は言葉を継いだ。

「したじゃない、昨日ホステルの前で、別れ際に。覚えてないの?」

恥ずかしさで言葉を選びがちな私のしどろもどろの説明を聞くと、ようやくジョージは合点がいったようだった。そして驚いたことに、笑いだしたのだ。

「あぁ、あれか。あれはキスじゃないよ」

「はぁ?」
「あれは、ペック」
「ペック?」
「そう。小鳥が嘴で軽くつつくだろう? あれと同じ、挨拶だよ。It was a peck, not a kiss」
「挨拶…」

これが異文化コミュニケーションというものなのだろうか。挨拶の概念がそもそもアルゼンチンと日本とでは違うのかもしれない。私が大げさに捉えすぎていただけなのだろうか? 急に自分が幼い子供になったような気がして、どう返してよいかわからず、私は自分の膝を見つめるしかなかった。ジョージはわははと笑った。

「そうか、あれをキスだと思っていたんだね」

ジョージは立ち上がり私に近寄ると、私の手をとった。私は顔を上げた。ジョージはとても優しい目をしていた。彼の手が頬に触れた。

「キスっていうのはね」

ペックとは違っていた。

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